水原 紫苑

 仏文科で学んだ学生時代以来、久しぶりのパリへと旅に出た歌人・水原紫苑さんのソルボンヌ大学文明講座への留学や長期滞在の日々を、写真と短歌で綴る日記エッセイです(隔週更新)。
リヨンの友
10月18日 リヨン
 夜中は咳が出たが、朝になったら元気である。シャワーを浴びて、朝食を取って、まだ時間があるのでホメロスを少し予習した。
 でもずっと部屋にいてもつまらないので、早めに出てリヨンの空気を吸う。ホテルのそばのブティックで赤い革のジャケットを見つけたのが気になる。バーゲンで139ユーロ。悪くないと思う。けれど本当の革かしら。それが問題だ。
 アンリアンヌとは十時半にカテドラルサンジャンで待ち合わせである。最初間違えてソーヌ河沿いの道を行ってしまったが、若いマダムたちに訊いてだいたい方向がわかってから、アンリアンヌにも電話してもう一度よく教えてもらった。カテドラルはかなり見て来たが、このカテドラルは威圧的ではなく、人間の身の丈にあった優しい感じがする。
 アンリアンヌと落ち合うと、一緒に中をゆっくり回ってくれた。ちょうど現代作家の工芸展も開かれていたので、伝統と融合したモダンな作品を楽しめた。
 前から気づいていたことだが、アンリアンヌは保守的なブルジョワのマダムであるらしい。フランス人がフランス文化を大事にしないことを嘆いていた。今の政治家には教養が無いという言葉が出てびっくりしたが、超エリートのマクロンも伝統的な教養人とは違うようだ。たしかにミッテランやシラクまでは、フランス大統領といえば超一流の文化人だったものだ。サルコジやオランドあたりからにわかに品下る人材がトップになったような気がする。
 アンリアンヌの友達は多くが左翼のインテリで立場が違うと言うのである。そして、フランスで言ってはいけない話題は、政治と収入だと教えてくれたのが面白かった。政治がむずかしい話題なのはわかるが、自分はいくら稼いでいると言うのも問題らしい。元より下品な話題だから口にする方がおかしいと思うが、自分で言う人もいるのだろうか。
 それから教会を2つ回って、お城のように立派な市庁舎を見て、ミューズが8人しかいない、ちょっと変てこなオペラ座を見て、リヨン旅行のもうひとつの目的だった、歌人で研究者の百合絵さんとの待ち合わせのサロンドテに向かった。アンリアンヌを紹介して2人にフランス語で話してもらい、2時半にオペラ座前でアンリアンヌが私を迎えに来るということで話が決まった。
 百合絵さんはお昼ごはんは食べない主義なのでお茶だけで、私はキッシュにレモネードを頼んだが、どちらも巨大で驚いた。
 百合絵さんは日本の大学に就職が決まられたそうでおめでたいことだ。このまま永住されるのかと思っていたが、母語の中に飛び込むことにもまた研究や創作の上で意味があるのだろう。いつも優雅な百合絵さんの作品の佇まいに魅了される。
 お話が終わると、百合絵さんはメトロに乗り、私は、オペラ座前は危ないとアンリアンヌに聞いたので、警察署の前に行って座っていた。ここならスリも来ないだろう。
 アンリアンヌに会って、今度はいよいよフェスティバルリュミエールのお目当て、ジェラール・フィリップのドキュメンタリー映画を観る。アンステュテュリュミエールはあまりに立派で、フランスでの映画の地位の高さを思い知った。
 売店でジェラール・フィリップのDVDをありったけ買ってしまい、カードでないと払えないので、アンリアンヌに隠してもらって洋服の下のカードを取り出してやっと払った。これでホテルの近所の革のジャケットは諦めることにした。
 今日は眠くならないように、気付のコーヒーを飲んで会場へ。この前パリのシャトレで会ったオーレリアンや、アンリアンヌのツイッター仲間のティエリーがとても親切で感じが良く、こういう若者がジェラール・フィリップをどんどん語ってくれるといいと思う。
 ドキュメンタリー映画は遺族の秘蔵の映像などジェラールが美しく見応えがあったが、彼が信奉していた共産主義国家の現実や次代のヌーヴェル・ヴァーグとの葛藤というような、彼の内面に深く切り込むものではなかったのが少し残念だった。それはぜひオーレリアンたちがやってほしい仕事である。
 上映後のサイン会で、アンリアンヌが助けてくれて、私がわざわざ日本からジェラール・フィリップの百年祭のためにフランスに来たのだと説明すると、ジェローム・ガルサンもアンヌマリー・フィリップも喜んでくれた。アンヌマリーの目鼻立ちがジェラールとそっくりなのが胸に迫った。
 さて、今日は素晴らしい1日だったのだが、なぜかお腹をこわしてしまって、夜は絶食した。喉の痛みや咳も出るが、匂いもわかるし、まさかコロナではないだろう。
コメディ・フランセーズからはコロナで休演の通知が来た。いったいいつまで続くのか。
死の床のジェラールかくもすこやけきほろびの姿シネマならずや
10月19日 リヨンからパリ
 今朝はだるくてなかなか起きる気にならない。困ったなと思ってアンリアンヌに電話すると、気温の変化が激しいから風邪をひいたんじゃないの、今日はビズをしなければいいわよと言ってくれた。それでちょっと元気が出て朝ごはんを食べに行く。昨日食べていないので、小さなクロワッサンと小さなパン・オ・ショコラ、それにジャム付きのバゲット一切れも食べた。飲み物はいつも通りカフェオレとオレンジジュース、あとはアプリコットのヨーグルト。大丈夫そうだ。マスクをして宿泊費を精算してもらい、荷物を預けてサンジャンから可愛いケーブルカーでフルヴィエールに行く。この時、昨日アンリアンヌにもらったチケットを忘れたので困ったが、地面に落ちているチケットを拾って差し込むと運良く使えたので助かった。

 純白のフルヴィエールは外からでも美しく、来た甲斐があったと思ったが、やがてアンリアンヌに会って中に入ると、ステンドグラスも天井画も、金とトルコブルーがさながら天国のようで恍惚とした。アンリアンヌと一緒にお祈りの蝋燭を灯して、これで天国でも友達ね、と私は笑った。この人なら本当にそうかも知れないと思う。3日間行動を共にして、全く疲れることがなかった。優しく思いやり深いが、さっと手を放してくれるところもある。
 それから古代ローマの劇場を見せてもらって、急な石段は怖かったが、感動した。こういう劇場でジェラール・フィリップの「ル・シッド」が観たかったし、観世寿夫の「井筒」や「野宮」も観たかった。古代の石畳の中でも、きれいな赤い石が心に残った。

 リヨンはパリより古いのね、と私が言うと、そうよ、パリだけがフランスじゃないのよ、とアンリアンヌが答えた。それでもパリが好きだけどなあという言葉はぐっと呑み込んだ。
 パリにいると、自分が地球外生物であるかのような異物感があって、そのひりひりする感じがたまらないのだが、他の町では感じることができない。東京も私にとってはそうではない。いて言えば京都だろうか。
 再びケーブルカーで旧市街に降りて、メトロでホテルに荷物を取りに行く。それから近所のブラッスリーでポトフをアンリアンヌと一緒に食べた。肉汁を吸い込んだ大根や人参がとても美味しかったが、お肉は食べきれなかった。私にしてはごく珍しいことである。
 ホテルのみんなにお菓子のお土産を買って、駅に着いた。チケットのメールが見つからず、最後までアンリアンヌにお世話を焼かせたが、なんとか見つかって列車に乗れた。付いて来てくれた彼女は、大丈夫よと最後にビズしてくれた。ありがとうアンリアンヌ、さよならリヨン。
 パリのリヨン駅に着くと、タクシーが長蛇の列で、仕方なく重い荷物を持って、トイレを我慢してメトロに乗る。シャトレとオデオンで乗り換えたが、だんだんにわが家に近づく感があるから不思議だ。汚くて人々がいらいらしていて、居心地の悪いパリの街が、こんなにも懐かしいのはなぜだろう。
 ホテルに帰り着くと、お馴染みのペドロがささやかなお土産を喜んでくれた。リヨンはどうだった? と訊かれたので、歴史のある美しい町だけれど、パリの方が刺激があってずっと好きだと答えた。ペドロもパリは活気があって好きだと言う。全く状況は異なるが、共に異国人として意見が一致した。
 それから部屋に上がって、まずアンリアンヌに電話すると留守番電話だった。疲れてしまったのだろうか。気になるが、メッセージを入れた。
 そして3日ぶりのコスモへ。いつものマダムがいるので、リヨンに旅行したけれど、ここが懐かしくて特にトビイが恋しかったと話した。トビイは残念ながらいなかったが。
 思いきってステーキとペリエとあとでサラダをもらった。デザートはババとカフェ・アロンジェ。パリに帰るとこんなに食べられるのが信じられない。疲れていたのか。気を遣っていたのか。
 再三言う通り、警察車両が狂気のように爆走して行くパリの街。乾いた早口の会話と煙草の煙が行き交うテラス。これらが好きだ。
 アンリアンヌからはメールが来て、疲れて眠っていたけれど元気になったと書いてあった。申し訳ない。お互いに楽しかったけれど疲れたのだろう。セラヴィである。
 部屋に戻って電話すると、いつもの声でちょっと安心した。本当に優しい人である。またフランスに来て会おう。
古代ローマ劇場に立ち詠むべくはつばさ妙なる一首ならずや
(文・写真・短歌 水原 紫苑)
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この記事を書いた人
水原 紫苑(みずはら・しおん)
1959年、神奈川県生まれ。歌人。早稲田大学大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了。春日井建に師事。歌集に『びあんか』(現代歌人協会賞)『うたうら』『客人』『くわんおん(観音)』(河野愛子賞)『あかるたへ』(山本健吉文学賞・若山牧水賞)『えぴすとれー』(紫式部文学賞)『如何なる花束にも無き花を』(毎日芸術賞)ほか。エッセイに『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』『百人一首 うたものがたり』など。小説に『歌舞伎ゆめがたり』『あくがれ——わが和泉式部』ほか。編著に『大岡信「折々のうた」選 短歌』『山中智恵子歌集』など。最新歌集『快樂(けらく)』を12月末日刊行予定。Twitter:https://twitter.com/Jeanne45944170