水原 紫苑

 仏文科で学んだ学生時代以来、久しぶりのパリへと旅に出た歌人・水原紫苑さんのソルボンヌ大学文明講座への留学や長期滞在の日々を、写真と短歌で綴る日記エッセイです(隔週更新)。
アヴィニョンの月
9月8日 パリからアヴィニョン
 ホテルの支払いの問題はカードの限度額増額でなんとか解決しそうである。ありがたい。
 となると早速週末の旅を考えてしまう。ジェラール・フィリップゆかりのアヴィニョンとカンヌである。
 ソルボンヌは2時に授業が終わるので、それからリヨン駅に行ってTGVでカンヌに行くことにした。アヴィニョンに2泊して、翌朝カンヌにまわって帰る。ホテルは素敵なマダムと会話して予約できた。
 さてまず学校へ行こう。
 恥ずかしいけれど、今日はソルフェリーノから行ったら、またまた迷ってしまった。だから一時間は見ておかないといけない。何食わぬ顔で学生証を作ってもらい、発音のラボに行くと、今日は3人だけだった。
 韓国人の女性とブラジル人の男性と私である。他のみんなは忙しいらしい。
 韓国人の女性とはすっかり仲良くなっていろいろ話した。つきあっている人と家を借りているのだと言う。うらやましい。私がホテル住まいだと言うと、凄い贅沢だと言われたが、どちらにしろ贅沢だろう。
 授業は日増しに楽しくなって、先生もにこやかだし、発言もどんどんして、みんなと一緒に12月の学期末まで残りたい気持ちが募って来る。それとも来年出直そうか。
 少し慣れたせいかそれほどは疲れなかった。
 カフェでキッシュとスープの軽食を済ませて出発である。
 今回の旅でリヨン駅に行くのは初めてだ。でも、学生時代に来た時は、お昼まで寝て、カフェでゆっくりしてから夜はお芝居を観に行くという生活だったので、パリ以外の旅行など考えたこともなかったから、きっとリヨン駅にも来ていないだろう。今とは全然違うのが不思議である。今はフランスを隅々まで知りたい。
 今日もまた旅の中の小さな旅をするわけだ。
 カードの残高を心配しながら切符を買い、出発までおやつのブリオッシュを食べて待つ。
 トゥールに行った時もTGVだったが、まだフランスに来たばかりなので、緊張して旅を味わうどころではなかった。今日はもう少し気楽だし、もしかしたらカンヌにも寄らないで、アヴィニョンだけのんびり観光しようと思う。カンヌはニースとセットでまたの機会でもいいだろう。
 旅行のために買ったのに一度も着ていないワンピースがあるので、ぜひホテルのお食事で着ようと持って来た。パリは雨で寒かったが、南仏のアヴィニョンは暑いくらいかも知れない。
 列車に乗り込むと、奥の席はお行儀のいい大人ばかりで居心地がいい。小さな子どもが僕のパパはどこ? 緑のかばんを持っているんだよ、歌うようにみんなに聞いている。パパはすぐに見つかったらしい。
 などとのんきにアイパッドを広げていたら、席を間違えていたとわかって、大あわてで発車した車内を移動することになった。とにかく失敗の多いことにはわれながら驚く。
 でも、初めての南仏に心躍るのである。
 トゥールに行った時も空いっぱいの雲に圧倒されたが、今日はまるで飛行機の窓から見るようならんらんとした超越的な雲が広がって怖いようだった。緑の色ももっと濃く、けものに近い感じがする。気温もどんどん上がって来るようだ。放牧されている羊たちや牛たちがおっとりと草を食べている。
 私はいったいどんなところに行くのだろう。これから何が起きるのだろう。両手を開くと、先日も書いたように、脇の細かい線がすっぽり抜けてなくなっている。きっと何かが私を待っていると思う。
産むひとのごとくに眉根寄せにけり南ふらんすわが身より出づ
 2時間あまりでアヴィニョンに着いたが、さらに乗り換えて、アヴィニョン中央駅に行かなければ町には出られない。TGVはいわば新幹線だから、旧来の町とは違う駅に止まるということが起きるのだろう。
 町には一見しただけでお城のような時代がかった立派な建物が多く、明日見て回るのが楽しみである。果たして明後日カンヌまで足を伸ばせるだろうか。
 ホテルはアヴィニョン中央駅からまっすぐ行った時計台広場にある。その名も時計台ホテルである。一応四つ星なので、おしゃれなところかと思っていたが、ひなびた作りで、静かで女性たちが親切なのがいい。
 ホテルにはレストランが無いので、いいお店を教えてもらって出かけたが、例によって辿たどり着けない。お腹も空いているので、仕方なくそばのお店に入った。
 海老の前菜と帆立貝のオリーブオイル炒めを頼み、お料理はまあまあだったが、混んでいるので応対がめちゃくちゃで、隣のテーブルのスコットランドの観光客の夫妻と何度も顔を見合わせ、しまいには仲良くなってしまった。
 明日の夜はホテルの人たちが美味しいお店を予約してくれると言う。
 部屋に上がると、なんとフランスに来て初めて月を見た。明日は中秋の名月だ。まさか阿倍仲麻呂ではないが、感慨一入ひとしおである。
 テラスにアイパッドを持ち出し、月を見ながら書いていると、夜十時の教会の鐘が鳴った。これまでとこれからの人生を考えると、もちろん時間的にはこれまでの方がほとんどを占めるのだが、自分にとってはこれからの人生と引き換えでも惜しくないように思われるから不思議だ。
 フランスとは私にとって何なのだろう。
アヴィニョンの月のおもては性超ゆるかがやきならむ ラ・リュンヌ ル・リュンヌ
9月10日 アヴィニョン
 アヴィニョンも朝は涼しい。テラスの風を感じると秋だと思う。
 こじんまりしたホテルだが、部屋はきれいに整っていて、浴室も掃除が行き届いているし冷蔵庫には飲み物が揃っている。残念ながら直前に予約したので、今日は別の部屋に移らなければならない。
 荷物をまとめてロビーに降りる。荷物を預けて朝食へ。ここもきれいで気持ちがいい。
 外国人観光客が多く、高齢者が大半だ。私もそうなのかしらとわが身を振り返って可笑しくなる。だが、私はソルボンヌの学生なので、明後日はTGVの中で宿題をやらなければならないのだが。なんと「ホテル・カリフォルニア」が聞こえて来た。誰の趣味だろう。
 今、午前8時。まず、教皇庁へ行こう。
 ホテルからは近いようだ。標識に沿って歩き始めたが、フランスの標識はちょっとわかりにくいので、途中で犬を連れた女性に道を訊くと、もう教皇庁の裏側にいるのだった。
お礼に犬をほめたが、これはお世辞でなく可愛かった。
 教皇庁前に出て、チケットを買おうとするが、まだ早すぎる。受付の男性があと45分もあると気の毒そうに言うので、カフェでコーヒーを飲んで待つことにした。

 でも、私はいつものことなのだが、事前に想像をふくらませすぎるので、いざ実物に出会うと拍子抜けすることも多い。シャルトルも最初はそうだったし、教皇庁もこれだったのかという感じである。しかし、中に入ったら感動するだろう。 
 本当に今日もそうだった。無感覚だった先刻の自分を叱ってやりたい。
 教皇庁の壮麗な外観もさることながら、内部を飾るフレスコ画や彫刻の数々が、時代を経て褪色や摩耗しながらも、なおいきいきと美しい。
 特にアンスティテュのD先生の授業で詳しく習った、傑物である教皇クレマンス六世の居室の貴族の遊びとしての狩と漁の風景は、色彩も鮮やかに残っていて、アヴィニョンの初期ルネッサンスの精華とも言えるものだった。ほとんど震えながら、街を見おろす屋上で早速D先生にメールを書いた。

 感動もおさまらないままにホテルに一旦戻って、昨日行かれなかったヴィンテージというレストランに行き、タルタルステーキを食べる。たしかに美味しかった。

 今度はお目当てジェラール・フィリップの展覧会である。会場であるジャン・ヴィラールの家というのは、すぐ近くなのに、誰に訊いても知らないと言う。困り果てて映画館で尋ねると、ムッシュが丁寧に案内してくださった。ついに旅の目的のひとつだったここに来たのである。
 日曜日はお休みで、月曜日から土曜日の2時から6時まで開館だというので、昨日から来ていて本当に良かった。今日パリから来たら、時間によっては見られなかった可能性もあるのだから。
 2時まで待ち遠しかったし、心配だったが、開くとみなさん親切で感じが良く、また、わざわざジェラール・フィリップのために日本から来たと言うととても喜んでくれた。実を言えば、展示にも説明にも、知らなかったことはほとんどなかったが、ジェラール・フィリップのための旅という当初の目的が叶ってまずは良かった。
 何と言っても、ホンブルク公子のジェラール・フィリップの舞台衣裳の展示が見られたことが収穫だった。白が基調で、白地に金色と黒をあしらった、長身で細いジェラールだからこそ着こなせたような気品のある華やかな衣裳だった。
 あとは売店でジェラールの写真や舞台台本をいろいろ買った。ジェラールとマリア・カザレスのトートバッグもあったが、ジェラール一人がいいので買わなかった。それに、大事なジェラールの顔を汚してしまっては困るのである。
 教皇庁とジェラール・フィリップの展覧会といういちばんの望みを達成して、さてどうしようと思ったが、アヴィニョンには中世美術の美術館もあり、また、ローヌ川の対岸にはもうひとつの見どころがある。悩んだ末、もう今日はだいぶ疲れたので、明日カンヌに行くのを諦めて、対岸には明日行くことにして、今日はアイスクリームを立ち食いしてから美術館に行った。
 中世絵画が溢れるほど並んでいて、しかも日本から来たと言ったら無料だった。何というありがたいことか。
ホンブルク公子の衣裳眼前にかがやきにけり死も隔つなし
(文・写真・短歌 水原 紫苑)
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この記事を書いた人
水原 紫苑(みずはら・しおん)
1959年、神奈川県生まれ。歌人。早稲田大学大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了。春日井建に師事。歌集に『びあんか』(現代歌人協会賞)『うたうら』『客人』『くわんおん(観音)』(河野愛子賞)『あかるたへ』(山本健吉文学賞・若山牧水賞)『えぴすとれー』(紫式部文学賞)『如何なる花束にも無き花を』(毎日芸術賞)ほか。エッセイに『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』『百人一首 うたものがたり』など。小説に『歌舞伎ゆめがたり』『あくがれ——わが和泉式部』ほか。編著に『大岡信「折々のうた」選 短歌』『山中智恵子歌集』など。最新歌集『快樂(けらく)』を今年刊行予定。Twitter:https://twitter.com/Jeanne45944170