水原 紫苑

 仏文科で学んだ学生時代以来、久しぶりのパリへと旅に出た歌人・水原紫苑さんのソルボンヌ大学文明講座への留学や長期滞在の日々を、写真と短歌で綴る日記エッセイです(隔週更新)。
レオナルド・ダ・ヴィンチの庭
8月24日トゥールからパリ
 今日はレオナルド・ダ・ヴィンチが最後に暮らしたアンボワーズを訪ねてから、夕方パリに戻る。猛暑らしいが、フランス人よりは暑さ慣れしているだろう。パリは肌寒いかも知れないから上に羽織るものも要る。
 今回の小旅行の楽しさに味をしめて、ジェラール・フィリップゆかりのカンヌやアヴィニョン、それに先日会ったツイッター仲間が住んでいるリヨンも行くことにした。
 日本にいる時はどこにも行かずにオンライン講座と友達との電話だけで暮らしていた私なのに、われながら変わり方に驚いている。
 私にとってのフランスとは何なのだろう。
開け放せるテラスより來たる鳥のこゑここロワールのしづかなるふらんす語
 藤棚にはところどころに小さな花房がある。返り花だろうか。トゥールは花がいっぱい咲く五月がいちばん美しいからまた来なさいと言われた。本当にまた来よう。
 マダムの手作りジャムを揃えた美味しい朝食をいただいて、お別れにフランス式のビズ(抱擁)をするととても喜ばれた。お孫さんが日本人とのハーフだそうで、ちょうどヴァカンスでロンドンから来ているということで、ぜひ会いたかったが、ルイ少年はまだ眠っているので、残念ながら駅に向かった。マダムは「さよなら」と言ってくれた。
 パリ・アウステルリッツ行きの特急で、アンボワーズで途中下車するはずが、車内で歌を作ったりメールをやりとりしたりする間にうっかり乗り過ごしてしまった。間抜けなことである。いっそこのままパリに戻るか、またはオルレアンに行ってみようかなどと迷うが、せっかくレオナルドのゆかりの土地にいるので、次のシャンボールで降りて、アンボワーズまで折り返すことにする。
 駅の相談室のマダムがとても親切だった。こちらももっと丁寧にお礼を言わなければならないのに、要点を伝えるのに精一杯でついそこまでできないのが申し訳ない。
 その一方で、自動販売機を使っている時など、後ろに人がいると気になって、「急いでいますか?」と訊いてしまい、怪訝な顔をされたりする。しゃべっているのが一応フランス語でも、気の遣い方が日本的なのである。何だか可笑しい。でも、こちらの顔を見ると、明らかに態度が悪くなる人も中にはいて、この国でアジア人として暮らすことの厳しさが想像される。
レオナルドいかにねむらむふらんすは天才を容るる國か死後まで
 ようやくアンボワーズに着いたが、今日はやはり予報通りの猛暑だった。暑さは慣れていると思ったのが甘く、湿気が無いだけに叩きつけるような陽光が直射する。愛用の麦藁帽子を持って来れば良かったが仕方がない。折りたたみ傘を開いて日傘の代わりにした。

 お城に着いて、見てまわる気力もなく、ロワール川の景色が見渡せるテラスで涼んでいると、トゥールにホームステイの経験があるフランス語仲間からメールが来た。暑くてもういやだとこぼすと、タピスリーや家具もあるし、少し離れたレオナルドの住まい、クロ・リュッセにはレオナルドが死ぬ時のベッドも飾ってあると教えてくれた。
 私は甘えん坊で気力も体力も無いので、疲れるとすぐ愚痴が出る。励ましてくれる友達はありがたい限りだ。
 石の螺旋階段を上がるとフランスルネサンスの王家の世界が開けていた。色褪せたタピスリーの数々、木肌の輝きを失わない椅子、そして、フランソワ一世の腕の中で死んでゆくレオナルドの絵とベッドがある。ずいぶん芝居がかった設定である。

臨終の彼を抱きけるフランソワ一世といふ星の物語銀河に投げよ
 ところが、すっかり楽しくなってクロ・リュッセをゆっくりまわっているうちに、TGVの便をのがしてしまった。またしても失敗である。駅員さんに頼んで、オルレアン乗換でパリ・アウステルリッツに9時過ぎに着く列車の切符を買い直した。とにかくこれでパリのホテルに帰る。
 果てしない田園から都会の薄汚れた風景が見えてくると心底ほっとするのは、日本にいても同じである。私は横浜の郊外の生まれ育ちで都会人というわけでもないけれど、自然は苦手なのである。
 パリのアウステルリッツ駅に着いて、タクシーでまずホテルに向かった。パリの夜は何と美しいのだろう。セーヌ川を渡る時のときめきは青春時代から変わらない。無理しても来て良かったと思う。
 カルチエラタンはこれからが盛り上がるので、荷物を置くとすぐ近所のカフェに行く。
お肉が食べたいので、仔羊のグリルにする。

 トゥールとパリでは、フランス語のスピードがまるで違う。お酒も入っているから、何を言っているのか全くわからないけれど、この空間にいるのが楽しい。
 月末にはジェラール・フィリップゆかりのカンヌとアヴィニョンを訪ねようと思っていたが、暑さがぶり返したことでもあり、カルチエラタンのホテルという絶好の条件をみすみす手放して荷物置き場にするのはもったいない。もう少しパリの真ん中で遊ぼう。仔羊のグリルに青隠元のソテーはとても美味しかった。
 だが、見えない、いや良く見える壁はある。私はアジア人で女で年寄りで一人である。疎外される条件が全部揃っている。ブラッスリーでも私のところにはなかなかギャルソンが来ないし、これは悪意ではないが、毎晩行っているのに必ず英語で話しかけられる。そばの食料品店の少年が音楽を聴いていたので、それは何?と言ったら全然通じず、答えてもらえなかった。あとから、チュニジアのだよ、とつまらなそうに言ったのだが。
 美しいパリの夜の中には絶対に入れない。それでもいいから今少し見つめていたい。
(文・写真・短歌 水原 紫苑)
≪新 刊 情 報≫
『巴里うたものがたり』(春陽堂書店)水原紫苑・著
2023年1月27日発売
歌人・水原紫苑が長年の夢だった旅へ。オペラ座や美術館、ジェラール・フィリップゆかりの地や、 大好きなカテドラル巡り、カフェ通い、ソルボンヌ大学文明講座への留学。
帰りたくない日々を写真と短歌で綴る80日の旅日記エッセイ。新作短歌119首!

この記事を書いた人
水原 紫苑(みずはら・しおん)
1959年、神奈川県生まれ。歌人。早稲田大学大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了。春日井建に師事。歌集に『びあんか』(現代歌人協会賞)『うたうら』『客人』『くわんおん(観音)』(河野愛子賞)『あかるたへ』(山本健吉文学賞・若山牧水賞)『えぴすとれー』(紫式部文学賞)『如何なる花束にも無き花を』(毎日芸術賞)ほか。エッセイに『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』『百人一首 うたものがたり』など。小説に『歌舞伎ゆめがたり』『あくがれ——わが和泉式部』ほか。編著に『大岡信「折々のうた」選 短歌』『山中智恵子歌集』など。最新歌集『快樂(けらく)』を今年刊行予定。Twitter:https://twitter.com/Jeanne45944170