水原 紫苑

 仏文科で学んだ学生時代以来、久しぶりのパリへと旅に出た歌人・水原紫苑さんのソルボンヌ大学文明講座への留学や長期滞在の日々を、写真と短歌で綴る日記エッセイです(隔週更新)。
夢のガルニエ
9月25日 パリ
 今日は憧れのガルニエ宮でシンデレラのオペラを観る。この間買った大胆なコートドレスを着ようかと思ったが、パリで買った黒地のワンピースが1回しか着られないのも残念なので、今日はもう1回それを着ることにする。暖かい衣類は文字通り先のために温存しておきたい。
 昨日映画を諦めたのが幸いして、今朝は元気である。実は「軽蔑」は今夜9時半からの上映もあるのだが、いくら危険の少ないカルチエラタンと言っても帰り道も怖いし、明日は大事なジェラール・フィリップ邸訪問だからやめておこう。そのために列車のチケットを予約しようとしていたのだが、なぜかどうしても進まない。きっとごく簡単なところでつまずいているに違いないのだが。
 オペラ駅は、カルディナル・ルモワンヌからだと、ラ・モトピッケで乗り換えて8番線でまっすぐである。ちょうどお昼なので、オペラ座のすぐそばの有名なカフェ・ドラ・ペに入って、今日はクロックマダムとペリエを頼む。

 本当は生牡蠣が食べたかったのだが、レストランは12時半からだった。それに、万が一当たったら、明日行かれなくなってしまう。
 このお店のクロックマダムは、クロックムッシュの上に丸い目玉焼きが載って、フライドポテトを付け合わせたシンプルなものだった。お味は普通。でも、案内してくれた若いマダムが、万事よろしいですか? とにこやかに訊いてくれた。これはとても大事で、多少高くても、お味が普通でも、微笑みはすべてにまさる。食べ終わるとカフェ・アロンジェを頼んだ。
 今、12時を過ぎたところ。オペラが始まるまでに2時間あまりある。今日は20度を越えて割合暖かいので、それまでこのテラスで過ごすのは悪くない。ワンピースを着て良かったと思う。向こうの席の若い女性は上着を脱いで、肩をあらわにしている。
 ちょうど席の隣に鏡があって、自分の顔が映っている。お化粧をしない肌が青黒くて、縮緬皺がある。これでは、いくら年を隠しても無駄だなあと、しみじみ感慨にふけった。
 ずっといるつもりだったが、お勘定がテーブルに置かれたので、コーヒーを飲んだら出て、ちょっとお散歩しよう。
 向かい側には、バッグで有名なランセルがあった。入ると愛想良くボンジュールと言われるけれど、冷やかしは顔でわかるだろう。一目でブランドと知られるバッグなので、こんなものを持っていては怖くてメトロには乗れない。
 その先には若者向きらしい洋服のお店ツァラがあって、お値段は手頃だが、これは若さのスタイルとパワーで着ないとみっともない。
 今日のワンピースは、マダム向きの小さなお店の品だから、その意味では着ていてもそう浮いた感じではない。
 そのうち思いついて、オペラ座のブティックに入ると、オペラやバレエのDVDもたくさんある。できればオペラ座の舞台を映したものがほしいと思って、売り場のムッシュに尋ねると、わざわざ出て来てとても親切に教えてくれた。単にメルシーボークーでは気がすまないので、普通はヴーゼットトレジョンティ(あなたはとてもご親切です)と言うところだが、思い余って、ヴーゼットシャルマン(あなたは素敵です)と言ってしまった。いや、当たり前のことだから、とムッシュは照れていた。
 日本にオペラ好きな友達がいると言うと、コロナで日本人は全然オペラ座に来なくなってしまったと嘆いていた。日本は厳しいと言う。そうだったのか。
 少し待つといよいよオペラ座の中に入れてもらえた。演劇評論家の村上さんが憧れていた通り、壮麗な建物である。今は先日行ったバスティーユのオペラ座ができたので、ガルニエはバレエが中心らしいが、やはりオペラはここで観たいものである。


 チケットのコピーを出すと、3階の左と言われたので、ここが3階かとマダムに訊くと、フランス式なのでもう1階上で、その階段を上がってくださいと切口上で言われてしまった。やっと席に着くと、この上が天井桟敷だが、シャガールが描いた天井画が美しい。シャガールは好きではないけれど、やっぱりいい。

 そしてオペラが始まると、歌の前に、オーケストラの音が何とも柔らかく優しい響きでこの3階席に届くので驚いてしまった。先週のバスティーユは1階席だったから、音がどう上がってゆくのかはわからなかったし、音楽は全く無知なので間違っているかも知れないが、昔のオペラ座の音はどことなく違うような気がする。 
 オペラは何度か行ってもなかなか馴染めないままなのだが、演劇としてよりも音楽の魅力にうっとりしたのは初めての経験だった。
 何しろ、シンデレラに乞食王子を組み合わせたようなもので、物語は至って単純でコミカルなのである。シンデレラが召使に変装した王子と恋に落ちて、王子に渡したブレスレットからそれとわかり、お妃になって意地悪な姉たちや厳しい父を許すというだけのことなのだが、歌手の声が実に素晴らしくて陶酔した。
 終わってからの歓声も、これはバスティーユの時もそうだったが、インテリの教養としてではなく、いかにも楽しんでブラヴォーと言っているのが羨ましかった。昔の歌舞伎の大向こうもそうだったはずである。
 お隣のマダムはオペラ通らしく、笑ったり何か呟いたり、それだけでこちらも雰囲気に浸ることができた。それに、オペラには関係ないが、私と同じくらいか上くらいのお年とお見受けしたが、ウエストをマークした洋服がお似合いで、体型がきれいなのである。そこは何とか見習いたい。
 終わってからもう一度売店に行ってほしいものを買い足し、メトロでまっすぐに帰ると、ルモワンヌの駅では小雨が降っていた。そのままカフェで食事をする。
 今日サービスしてくれたギャルソンには、お客さんはヴァカンス? どこの出身? と訊かれた。お見通しなのである。旅行者でなければ、普通、毎日カフェでごはんは食べない。日本だと言うと、美味しい、と日本語で言ってから、パリのごはんは美味しいか、とフランス語で訊かれた。もちろん美味しいと答えたが、何となく寂しい感じがする。旅だということは忘れたいのに。
 いつものギャルソン2人は興醒めなことは言わないから好きだ。微妙な感覚だが、そういうところで人の心は動いてゆく。
 若いギャルソンはテーブルに来て、元気? と言ってくれた。黙って聞いていると馴染みの客にはみんな言っているようだ。なるほどねと思う。帰りには、またね、と言ってから、お勘定がまだだね、またねじゃないよと笑った。パリのギャルソンは、役者に似ている。
オペラいでて抜き身のひとりきらきらしローブに包むうつそみは銀
(文・写真・短歌 水原 紫苑)
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この記事を書いた人
水原 紫苑(みずはら・しおん)
1959年、神奈川県生まれ。歌人。早稲田大学大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了。春日井建に師事。歌集に『びあんか』(現代歌人協会賞)『うたうら』『客人』『くわんおん(観音)』(河野愛子賞)『あかるたへ』(山本健吉文学賞・若山牧水賞)『えぴすとれー』(紫式部文学賞)『如何なる花束にも無き花を』(毎日芸術賞)ほか。エッセイに『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』『百人一首 うたものがたり』など。小説に『歌舞伎ゆめがたり』『あくがれ——わが和泉式部』ほか。編著に『大岡信「折々のうた」選 短歌』『山中智恵子歌集』など。最新歌集『快樂(けらく)』を12月末日、『巴里うたものがたり』を2023年1月末日刊行予定。Twitter:https://twitter.com/Jeanne45944170