水原 紫苑

 仏文科で学んだ学生時代以来、久しぶりのパリへと旅に出た歌人・水原紫苑さんのソルボンヌ大学文明講座への留学や長期滞在の日々を、写真と短歌で綴る日記エッセイです(隔週更新)。
シャンティの空の傷
9月4日パリ
 今日は日曜日だ。昨日カフェで、明日はどこで食べたらいいかわからないと言うと、俺たちはいるよと言ってくれたが、お店はお休みである。
 本当に今日は何をしてどこでごはんを食べようか。起きてシャワーを浴びてメモを付けて考える。午後3時に久しぶりのロシア語のレッスンなので、それまでには帰って来なければならない。オンラインなので、どこかのカフェでレッスンをすることもできるが、ロシア語を発音するのはむずかしいかも知れない。
 とりあえず朝食に行こう。
 やっぱりシャンティだという考えが湧いて来た。先日はシャンティがお休みでサンリスに行ってとても良かったが、シャンティのお城で、アンスティテュのD先生に習ったジャン・フーケ作の時祷書が見たい。
 パリ北駅から国鉄に乗るのも少し慣れた。今日はオデオンからの12番線が閉まっていたので、アウステルリッツから5番線で回って北駅に行く。シャンティとの往復切符を買って、お昼のナゲットサンドと炭酸水も買い、画面に列車のホームが出るのを待って、乗り込む。乗り過ごさないように、車内ではアイパッドは開かない。
 今日のシャンティは秋晴れで気持ちがいい。
青空に縦横の傷 シャンティの城はわれらを迎へむとして
 飛行機雲のような白い線が空に走っているのは何なのだろう。だが、それも憂鬱ではなく、競馬場で名高いシャンティの森に沿ってお散歩気分で歩いて行く。
 道に大きな馬糞らしいものが落ちているのも微笑ましい。
 芝生のところで、きれいにお手入れされた犬と2人の女性がピクニックをしていて、犬があんまり可愛いので、写真を撮らせてくださいと言った。飼い主さんがわんちゃんに何か言うと、何とこの子は、こちらを向いてポーズを取ってくれたのである。人気者と見える。丁寧にお礼を言って撮ったが、間違えて画面を閉じてしまい、あとで見たら写っていなかった。せっかくのポーズが残念であった。
 最初に行ったところで、エチエンヌ・シュヴァリエの時祷書と言うと、ここは大厩舎と馬の博物館なので、あちらのコンデ公のお城に行ってくださいと言われる。
 暑くなって来て、革ジャンを脱いだ。

 やっと辿り着いたお城は立派で美しい。壁一面にオマール公のコレクションが飾られている。今とは違う絵の飾り方だと、D先生に教えていただいた通りだ。
 だが、肝心のジャン・フーケ作のエチエンヌ・シュヴァリエの時祷書が無い。黒いスーツのムッシュに訊くと、それは図書室だとのことで、図書室に向かって行く途中で、薄暗い小部屋を見つけた。入って行くと、まさにこの1年近く、D先生に懇切なご講義をいただいていたジャン・フーケの傑作の挿絵集に出会えたのである。
 エチエンヌ・シュヴァリエという15世紀フランスの高官の時祷書に、時代を代表する画家が渾身の絵を入れたのだから、金やラピスラズリをふんだんに使う贅沢さと、ところどころに色や紋様や図像そのもので表す王家への恭順と、そして当時の三位一体の神学とが融合して、この上もなく興味深い芸術品になっている。
 金の部分は紙が盛り上がっているのがわかるし、紙自体がゆるく波打っているのもわかる。葉書大ほどの極小の画面に、イエスキリストの生涯と初期キリスト教の聖人たちの殉教の場面が、当時のフランスを暗示しながら展開されているのである。
 感激した私は、お城の1室で、ヴァカンス中のD先生にすぐメールした。これで、2回にわたってシャンティまで来た目的は達したわけである。
ジャン・フーケの極小宇宙に膨れたる神の頭文字D在りにけり
 お城には時代衣裳を着せてもらえるサービスがあって、可愛らしい少女たちがドレスを着ていて、本当にお姫様のようだった。
 金色で装飾された広間の大きな鏡には、こんなお姫様が写っていたのだろうか。
 ここでもう1時半頃になってしまった。これから急いでパリに戻ってホテルでロシア語のレッスンを受けるのは無理である。こんなこともあろうかと、アイパッドとテキスト持参なので、あとはオンラインの場所を確保するだけだ。
 だが、駅までにカフェやレストランもいろいろあったが、フランス人たちの中で、アジア人の私が、大きな声でロシア語を発音するのはいかにも気がひける。
 それではと、駅のホームに座り込んで、アイパッドを開いた。まわりのフランス語や汽笛やいろいろな物音が入るので、R先生はびっくりなさっていたようだ。申し訳ないことをした。ずいぶん忘れていると言われたので、また1から勉強しなければならない。
 やっと着いたパリ北駅では、なかなかメトロの方に出られなくて、いろいろな人に訊いたが、親切な人も意地悪な人もいて、これも旅の味わいか。
 ホテルに帰ると、受付の女性が、私の全滞在期間宿泊が決まったと言ってくれた。これでずっとカルチエラタンにいられる。ここがかりそめの私のお城だ。
 今夜はどこで食べるか、さんざん迷ったが、結局まだ一度も入ったことのない、ホテルのすぐ向かいのカフェに入った。ちょっと緊張する。飲むだけか、と訊かれて、食事したいと言い、テラスのちょうど1人に向いた席に座った。ホテルが真正面から見えて気恥ずかしい。
 いつもの店とは違って、生レモンの絞りたてジュースはなく、瓶入りのレモネードだった。変わったものと思って、牛タンのサラダと茄子の胡麻油ソースの2皿を頼む。牛タンは薄切りで、ごくさっぱりしていた。茄子の方は、味噌とチーズも使われていて、東洋風の面白い味だ。私の両側の英語で話すカップルは、どちらもステーキである。デザートは食べないらしい。
 洒落たお店なのかしらと思いながら、デザートはチョコレートムースにした。これもいつもお店にはないものだ。昔、フランスの家庭でご馳走になって、お腹一杯になってから、たっぷりのチョコレートムースが出て来たことを思い出す。

 これも程よく美味しかった。ここもいいが、やはり明日はいつものお店に行くだろう。
 パリの空にも傷が入っている。だが、空の色はシャンティより淡い。
巴里の空の淡きひとみは東洋のさきをみなのひとみを映す
9月5日
 今日からいよいよソルボンヌの文明講座が始まる。教会や美術館をまわるのが楽しくて、正直なところ、学校はあまり行きたくないなと思っていたのだが、まだ授業は受けていないものの、来てみたらやはり楽しかった。
 まず、レベルチェックのやり直し。私は時間の都合で、B2の中級クラスになっていたのだが、テストをしてくださったマダムの判断で、午後のC1の上級クラスに替わった。やりがいもあるし、面白そうだ。これならサボらずに通わないとついて行かれないだろう。いろいろ勉強の秋である。今夜のメールを待って、明日から正式にクラスに合流する。12時に始まって2時に授業が終わるので、朝も楽だし、授業のあとは美術館にも行かれそうだ。
 日本の学校とは違って、雰囲気も自由だし、さまざまな国の人がいて、フランス語に混じって、そこここで英語が響いている。
 ここは七区だが、近くに19世紀建立のネオゴシック様式のサント・クロティルド教会があって、帰りに寄ると、白い軍服姿の男性が祈って跪いていた。
 教会と軍隊とは、今もフランスという国を見えない網で絡め取っているのかも知れない。
日燒けせる軍服の人しなやかに跪きにけりいづこより還る
(文・写真・短歌 水原 紫苑)
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『巴里うたものがたり』(春陽堂書店)水原紫苑・著
2023年1月27日発売
歌人・水原紫苑が長年の夢だった旅へ。オペラ座や美術館、ジェラール・フィリップゆかりの地や、 大好きなカテドラル巡り、カフェ通い、ソルボンヌ大学文明講座への留学。
帰りたくない日々を写真と短歌で綴る80日の旅日記エッセイ。新作短歌119首!

この記事を書いた人
水原 紫苑(みずはら・しおん)
1959年、神奈川県生まれ。歌人。早稲田大学大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了。春日井建に師事。歌集に『びあんか』(現代歌人協会賞)『うたうら』『客人』『くわんおん(観音)』(河野愛子賞)『あかるたへ』(山本健吉文学賞・若山牧水賞)『えぴすとれー』(紫式部文学賞)『如何なる花束にも無き花を』(毎日芸術賞)ほか。エッセイに『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』『百人一首 うたものがたり』など。小説に『歌舞伎ゆめがたり』『あくがれ——わが和泉式部』ほか。編著に『大岡信「折々のうた」選 短歌』『山中智恵子歌集』など。最新歌集『快樂(けらく)』を今年刊行予定。Twitter:https://twitter.com/Jeanne45944170