松井 久子
第3回 髭剃りとボタンつけ
 シンクに溜めた熱い湯でタオルをしぼり、湯気を立てながら広げると手速く畳み直して、顔を覆う。
 蒸しタオルはブランドものの分厚いものでなく、遠い昔、商店街で年賀の挨拶とともにもらったような、薄手のものがいいらしい。
 タオル蒸しが済むと、豚毛のブラシで石鹸を泡立て、できた白い泡をブラシの先ですくい取って、鏡に映った顎と鼻の下に塗っていく。そしてゆっくりと剃刀をあてていく。
 逸平は、こうして毎朝、たっぷり時間をかけてする昔ながらの髭剃りを日課にしている。いまは電気剃刀のいいのがあるのに、いくら勧めても頑として聞こうとしない。
 日々の暮らしのそこここに、昔ながらの習慣が残っている。
 あえて面倒な手順を踏むのは、頑なに「便利」を拒み、時代の波にのみ込まれるのを拒否する意思の表れか。それとも長年をかけて培ってきた、自分のなかのこだわりの文化を護るためか。
 彼はそれを「規律」とか「規範」という言葉で説明する。そして私は、夫となった人が日々繰り返している行為を見ながら、期せずして「昭和」を追体験しているようだ。
 そんなときは、20年ほど前に91歳でこの世を去った父の記憶がよみがえって、懐かしさでいっぱいになる。
 私の父も逸平と同じように、日常生活のルーティンにこだわる几帳面な人だった。無口で穏やかな性格もどこか似ている。
 そして思うのである。
 この人とともに生きてみたいと、晩年の再婚を決めたとき、自分は無意識のうち彼のなかに、父の面影を追っていたのかもしれない、と。
 父の茂夫は、明治の末年に現在の東京・新宿区牛込で生まれた。
 父の父親、私の祖父にあたる人は、岐阜県飛彈の山奥の村から東京に出てきたとき、鉱山師としてかなりの成功をおさめる事業家だったという。
 そんな男が、茨城県の水戸からやってきた娘(私の祖母)と、どのような経緯で結婚することになったのか、具体的なことはとうとう聞きそびれてしまった。
 記憶にある祖母のきれぎれの言葉から推測すると、あの頃、地方出身の娘たちが良縁を得るには、伝手つてを頼って東京にやってきて、お屋敷町の一軒に住み込み、行儀見習いとして働きながら教育を受けることだった。
 そのお屋敷で、奥さまの厳しい叱責を受けながら、ひと通りの家事と行儀をマスターすると、やがて奉公先の奥様がお膳立てしてくれる見合いにのぞみ、相手に気に入られれば、その男のもとに嫁いでいく。
 それが地方出身の子女たちの、一般的な「婚活」だったようだ。
 娘たちは、見合い相手から品定めをされはしても、男を選ぶ権利はなかった。女という性に生まれた者は、受け身であることが当たり前な時代だったのだ。
 そして、祖母セツの人生は、経済的には何不自由ない祖父のもとに嫁ぎ、一人息子を授かったものの、女性としてはあまり幸せなものではなかった。
 いつの頃からか、祖父が「おめかけさん」の住む別宅に入り浸って、本妻の家には滅多に帰ってこなかったからである。
 セツは長いこと、夫の不倫に苦しみ、内に修羅を抱え続けたせいか、それとも生まれつきの性格ゆえか、孫の私から見ても「癇性かんしょうな女」だった。
「癇性」。いまでは使わなくなったその言葉を『広辞苑』で引くと、「神経過敏で激しやすい性質」とある。また、「病的にきれい好きなこと」とある通り、祖母は極端にきれい好きで、何かにつけて小言の多い女だった。
 あれは大学生の頃だったろうか。
「よく、母親に連れられて、音羽の女性の家の前まで行ってね。『さ、お父さんに、迎えに来たと言って、連れてきなさい』と、無理やり背中を押されて、玄関の呼び鈴を何度も鳴らしたもんだよ」
 自分のことを滅多に語らない父が、一度だけ、娘の私にそんな話をしてくれたことがある。
 人一倍家族思いの、気の弱い父を、「男らしいスケールというもののない小市民」などと見くびっていたけれど、父はあのとき、娘の私に何を伝えたかったのだろうか。
 いま、90歳の逸平の姿につい父の面影を重ねてしまうのは、彼もまた「父親とは縁の薄い子どもだった」と話してくれたからだ。
 夫の影山逸平の場合は、太平洋戦争真只中のまだ11歳のとき、父親の突然の病で、死に別れている。
 その少し前に長兄が出征先の中国で戦死していたので、立て続けに息子と夫をうしなった母親は、その後、残された子どもたちのうち三男の逸平を誰よりも頼りにしたという。
 誰もが民主主義に希望を託していた時代、家庭の中にはまだまだ根強い家父長制が残っていたが、私の父と夫は二人とも、「父権」や「亭主関白」といったものには、まるで無縁な男だった。
 そして彼らは、揃って超のつくほど「子煩悩」な父親でもあった。
 子ども時代に男親に可愛がられた記憶が薄く、いつも母親をサポートする役割を担ってきたせいか、二人とも「いい父親でありたい」という欲求が人一倍強かったのだろうか。
 たとえば私の父は、毎夜、夕食が終わると、ランドセルから出した筆箱を膝に置いた私たち4人の姉弟を、食卓のところに並ばせた。
 その日子どもたちが学校で使った筆箱の鉛筆を、毎夜、一本一本、丹念にナイフで削り揃えるのが、父の夕食後の日課だったのだ。
 翌朝私は、昨夜父が削ってくれた鉛筆の入ったランドセルを背負って登校すると、教室の席に着くなり、とても誇らしい気持ちで筆箱を開けたものだった。
 また、毎年新学期になれば、与えられた真新しい教科書に、毛筆で氏名を記すのも父の仕事だった。
 家には祖母と母がいたので、家事を手伝う習慣はなかったが、子育てには積極的にかかわる父親だった。
 いっぽう、川崎市の中心街で炭や練炭、炭団などの燃料を商う店の子だった夫は、「家事は誰でも、手の空いた者がする」のが当たり前な家に育った。 
 特に父親が他界した後は、母親を助けるために、家のなかの仕事は何でもしたという。
 彼は子どもの頃から、「男はこうあるべき」という教育を受けなかった。
 母は兄弟のなかでも三男の逸平を一番頼りにして、家のなかの仕事は何でも言いつけたという。
 先日、朝食を食べながら、向き合った彼のカーディガンのボタンが、ひとつ取れているのに気がついた。
 後でつけてあげなくてはと思い、午後になって机に向かっている彼の背に、
「取れたボタンは何処?」
 訊ねると、振り向いた彼が、
「もうつけたよ」
 と、答えたのである。
 近づいてカーディガンのお腹のあたりを見ると、下から2番目のボタンの4つの穴に、茶色の糸を十字にわたして、きれいにつけ直されている。
「上手いのねぇ。こんなことを昔から、全部自分でやっていたの?」
「もちろんだよ。知美が子どもの頃は、彼女の服のボタンつけも僕の仕事だった」
 と、当たり前のように言った。
 考えてみれば、商家でも農家でも、生活に追われる庶民の暮らしは、皆、そんなものではなかったか。
 というわけで、今年90歳を迎えた私の新婚の夫は、すこぶる元気で健康で、日常生活にまつわる雑事を何でもできる人なので、妻の私は食事をつくること以外、「女の仕事」がほとんどないのである。

第4回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。