松井 久子
第4回 ジェンダー・ギャップのない暮らし
 子どもの頃の家庭環境は、その人の性格や人間性の核を決める。
 私の父と夫とは、それぞれの子ども時代に男親の愛に恵まれなかったことが、逆に彼らの子煩悩で家族を大切にする、優しくマメなキャラクターの基本を形づくったような気がする。
 そして、会って半年足らずで結婚した私たちが、互いにすんなり気が合ったのは、まさに子どもの頃の家庭環境や生活レベルにあまり差がなかったからではないだろうか。
 逸平は京浜工業地帯・川崎の、あまり豊かでない商家に生まれ育ち、私も江東区深川の、貧しい家庭に育った。
 二人とも、母親が商売をしていたし、男女共学の公立中・高校で、民主主義を重んじる戦後教育を受けた。
 歳はひとまわり以上離れていても、戦後の右肩上がりの高度成長期に庶民の家庭で育った私たちは、金銭感覚もよく似ているし、思想的には共にリベラル派に属する人間である。
 結婚生活を営む上で、人生の価値観が近いことは、若い世代の結婚においても大事なことだと思う。ましてや私たちみたいに高齢者同士となると、どちらにも長年培ってきたそれぞれの価値観がある。それがお互いのなかに頑固にかたまっている。
 若いときに結婚した夫婦ならば、長い時間をかけて一緒に築いてきた価値観があるのだろうが、老齢になっての出会いとなるとそれがない。むしろ違うのが当たり前で、その違いを発見しては驚いたり、なるほどと思ったり、新鮮に感じたりする。
 相手との違いを楽しめるか、それとも互いの相容れない部分が気になるか。
 よく「いい歳をして、再婚なんて面倒なことは真っ平よ」と言う人がいるが、私はそれを生命力の問題だと思っている。面倒なことを面倒と思わず前向きに楽しめる人、いくつになっても「生き直し」のできる人は、健康で生命力がある証しではないか。
 いずれにせよ、歳を重ねてからの我慢は禁物だから、せめて子どもの頃に育った環境は、近いに越したことはないだろう。

 ところで、私が33歳で離婚をしてから四十数年、逸平に会うまで一度として再婚を考えなかったのには、やはり根本のところで大きな理由があったからだ。
 根本のところでの大きな理由。それはまさしくジェンダー平等の問題だった。
 私が最初に結婚した相手は、家父長制を重んじる家庭で育った、男尊女卑を絵に描いたような男だった。
 そういう男が、妻に対してどれだけ理不尽な要求をするかを知らず、前もって確かめもせず、熱に浮かされるように結婚をして、ひたすら良き妻、良き母になるのが人生の目的と信じていたのである。
 そんな私に待っていたのは、結婚から10年後のシングル・マザーという境遇だった。
 そしてあの日から、自らの運命をもう誰にも預けないぞと心に決めて、仕事に打ち込んでいくうち、どんどん「強い女」になっていった。
 幸か不幸か、日本では伝統的に、男が「支配できる女」=「愛される女」なのである。多くの男は支配できない女に友達以上の関係を求めない。
 どんなに強い女にも、人を愛する権利も資格も、ましてや誰かを愛したい欲求もあるはずなのに。
 かくて強い女は、仕事で成果を上げていくにつれ、また、自分らしく生きる日々を重ねるにつれ、「おひとりさま」を志願するしかなくなっていくのである。

 「おひとりさま」といえば何ヶ月か前のこと、社会学者の上野千鶴子さんに、20年以上をともに生きてきた男性がいて、彼の死の直前に婚姻関係を結んだらしいと、意地悪な週刊誌報道の餌食になった。
 上野さんは、日本のフェミニズムのオピニオンリーダーとして、この家父長制の強い日本社会では、女性は「おひとりさま」で生きるのが賢明であるという持論を展開して、同時代を生きる女性たちから大きな支持を得た人である。
 件の週刊誌情報に、彼女の信奉者のなかには「裏切られた」と思った人もいたようだが、私は上野さんほど強い女性にも長年のあいだ愛し愛される人がいたと知って、ほっこりした気持ちになったものだった。
 考えてみれば自分もついこの間までは、「おひとりさま」のまま死んでいくのだと、思い込んでいた。
 しかし時代は大きく変わって、今や私のような者が離婚後の日々に寂しさや惨めさを抱かず、生きられるようになっている。
「女は男に愛されて生きるもの」という価値観は、もはや遠い過去の遺物。「おひとりさま」が胸張って生きられるような時代になったのは、社会学者上野千鶴子の功績である。

 さて、ひとりで生きていくはずだった私が76歳にして出会った男、影山逸平は昭和ヒトケタの日本の男には珍しく、男女平等の精神が根っから身についた人だった。
 それを本人は子どもの頃から当たり前に家事をしてきたからだと言う。
 もし彼が男尊女卑の男だったら、私は彼をいっとき好きになったとしても、結婚に踏み切ることはなかったろう。
 半世紀近く、自由気ままなひとり暮らしを謳歌してきて、命令されたり束縛されたりには、もう耐えられない人間になっている。
 しかしいっぽうで、フェミニストは男に命令をするもので、自分がイニシアティブを取らなければ気が済まない輩と考える人がいるとしたら、それは大いなる誤解である。
 自分から進んで主体的に「尽くす」なら、いくつになっても誰かに尽くしたい。
 尽くす行為には、思想信条にかかわらず甘美さがともなうのは、私だけだろうか。私の場合、四十数年のひとり暮らしを経て、やっと再婚できた男には、ついあれこれと世話を焼きたくなってしまう。
 ところが再婚した相手は、90歳にもなって何でもひとりでできる男なので、私がしてあげられることがほとんど何もないのである。

 彼の部屋のクローゼットを開けると、下着などを入れた木製の引き出しの上に、透明なプラスティックの引き出しボックスが何段も重ねてあって、それらの中身はすべて、長年にわたって彼の管轄下に置かれてきたようで、どこも整理整頓が行き届いている。
 ひとつの引き出しには手前と奥に、4枚ずつのYシャツが2列に並んでいて、大学で教鞭をとっていた頃は、毎朝、その何十枚というYシャツを順番に、洗濯屋のポリ袋から出して着るのが日課だった。
 その日課は、定年になって20年が過ぎたいまも規則正しく踏襲されていて、現役時代は毎日替えていたのが、いまは1日おきになった以外はずっとその習慣を守っているのだから、お見事としか言いようがない。
 そんな暮らしの日々に、ちょっと思いがけないことがあった。
 ある日、出版社での打ち合わせを終えて、家に戻ると、私の部屋のテーブルの上に、洗濯物がきれいに畳んで置いてあったのである。
 男性に洗濯物を畳んでもらうなんて、生まれてはじめての経験だ。
「ありがとう! 洗濯までしてくれたのねぇ!」
 感激しながらクローゼットの引き出しにしまおうとして、ハッとなった。
 畳んだ洗濯物の一番上に、数枚のパンティが、ちょこんと乗っていたのである。
「あら? どうしてパンティは、畳んでないの?」
 訊ねると、彼が、
「……。畳んだこと、ないから…。どうするのか、わからなくて…」
 もじもじと答えた。
 そのきまり悪そうな表情に、思わず声を上げて笑ってしまった。
「何を言ってるの? 簡単じゃないの。こうして上下二つに折って、あとは右から左に、左から右と畳むだけよ」
「なんだそれだけか……」
 素っ気なく言い、もう大丈夫、という顔をしている。
 意外だった。
 治子さんが生きているあいだも「家事の大半は僕の役目だった」と言っていたけど、妻の下着を畳むことはなかったのか?
 家事の面では、ジェンダー・ギャップのない暮らし方が身についていても、前妻との暮らしでは、下着の洗濯などに、厳然と、男と女の線引きがあったのかもしれない。
 彼と同い年の治子さんは、教育者として先進的な考え方の持ち主であっても、自分の下着を夫に洗濯させるなどしない、節度も奥ゆかしさもある女性だったのかもしれない…。


第5回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。