松井 久子
第5回 終の住処
 梅雨に入って、いかにも気の晴れない日が、1週間以上も続いている。
 空一面に鉛色の雲が垂れこめて、毎朝の習慣にしているスクワットもついついさぼりたくなってしまう。が、夫の逸平は、
「こんな天気だからこそ、運動で気分を盛り上げたほうがいいんだよ」と言う。
 彼の辞書に「怠ける」という言葉はないようだ。
 洗面を済ませると、娘の知美さんからプレゼントされたトレッキングポールを一本ずつ持って、3階のルーフ・バルコニーに出る。
 そして、西に遠くそびえる富士山に向かって大きく深呼吸し、それぞれが子ども騙しのようなストレッチをした後は、二人向き合い、私が号令をかけて、たった30回のスクワットをする。
 いつの間にかそんなことも、つがいの暮らしの日課になった。
 普段ならスクワットを終えた後は、多摩川べりの散歩に出かけるのだが、
「今日はパスでいいでしょ。こんな天気だもの」
 と言って部屋に戻り、ちょうどスマホを手に取ったとき、着信音が鳴った。
 見るとLINEが1通届いている。
 小学校の頃からの友達、結城史子からだ。
── 翠先生、とうとう施設に入られたみたい
 簡潔に用件だけが書かれていた。
 えっ、もう施設に? ちょっと早過ぎやしない?
 すぐに折り返して電話をしたが、史子も詳しいことはわからないと言い、早速、翠先生が入居したという老人ホームを二人で訪ねる日が決まった。
 翠先生とは、私と史子の小学校時代の恩師で、もうかれこれ65年のおつきあいになる。
 65年といっても親密な関係がべったり続いてきたわけでなく、子育て中や、仕事が忙しかったあいだは、年賀状のやりとりが精一杯だった。
 それでもあの卒業式の日、12歳の私が衝撃を受けた30歳の女先生の、美しい袴姿を忘れたことはなかった。
 淡いピンクの和服と、胸高に締めた紫の袴。桜の木の下の凜とした翠先生の立ち姿に「私もあんな大人になりたい」と、心から思い、その後もずっと憧れ続けたのだった。
 その翠先生との交流が復活したのは、50歳になったばかりの頃だ。
 私がはじめて監督した映画の試写会に、史子をはじめ仲の良かったクラスメートの何人かを招待すると、彼女たちが「憧れの翠先生」を連れてきてくれたのである。
 その日をきっかけに、先生と近況を報告しあうクラス会が、年に一度のわりで開催されるようになった。あれから二十数年、会場にやってきた翠先生の傍には、いつも夫さんのにこやかな笑顔があった。
 だから、「つがい」とか「おしどり」という言葉を聞いて、真っ先に思い浮かぶのが、小学校時代の恩師・島村翠先生ご夫妻の姿だった。
 真っ当に生きるとはこういうことなのだ、とお会いするたびに思い、自分の結婚は何故それができなかったのか…と慚愧ざんきに堪えない気持ちになった。
 そして再会から25年が過ぎた昨年末。翠先生にもとうとう愛する夫さんを彼岸に送る日がやってくる。
 結婚から70年。96歳と94歳になるまで、あれだけ一緒に居続けた夫婦でも、やっぱり死ぬときは独りなのだなぁと、当たり前な残酷を思い知らされたのだった。
 そしてこの春、JR国立くにたち駅前の桜並木が満開の時期に、馴れないひとり暮らしは寂しく心細いだろうと、史子と二人で翠先生のお宅に伺った。
 あの日もいつものように、史子と私が家でつくった手料理を持ち寄って、先生がつくっておいてくれたお惣菜と一緒にテーブルに並べると、思いがけず華やかなランチ・パーティーになった。

 久しぶりに会った先生は、ひとまわり小さくなったような気がする。長年の伴侶をうしなった悲しみからまだ抜け出せていないように見えた。
「喧嘩らしい喧嘩もしたことがなかったからねぇ。お父さんとこの家に住んで、もうじき40年よ。こんな小さな家でも、やっぱりひとりは心細くてね。夜中に目が覚めて、『お父さん、怖いよう』と、つい声に出して言ってしまうこともあるの」
 と、珍しく弱気な表情を見せる。
 どうやらひと月ほど前、スーパーに買い物に行った帰りに路上で転んで、顔をしたたかに打ったときのショックが未だ癒えていないようだ。
 それでも「気力が続く限り、この家で暮らすつもり」と、ご自分を叱咤するように言って、手なぐさみに始めたという色鉛筆のぬり絵を見せてもらっていたとき、
「そうだ! そういえば昨日、セコムを入れたのよ」
 と、突然、思い出したように言われた。
「セコムって、防犯の?」
「そうよ。これでもう、夜中に泥棒が入ってくる怖さはなくなったけど…」と言った、その先の言葉が続かない。
「どうしたの?」と訊ねようとしたとき、
「あ、私はこれで、死ぬまで独りなんだな、と思ったの」
 と呟かれたのである。
 なるほど、そういうことか…。
 セコムを入れるということは、最期までの一人暮らしを、覚悟することなのか…。
 翠先生には二人のお子さんがいる。
 長男さんは丸の内の大企業でもうじき定年を迎えるサラリーマンで、次男さんは千葉県のほうで、小学校の校長をされているという。
「お子さんたちは一緒に暮らそうと、言ってくれないの?」
 と、史子が聞いた。
「言わないわね。私もそんなこと、考えたことないし」
「次男さんのところに行くのは?」
 私も訊ねる。
「ひとりがいいのよ。お父さんと長年暮らしたこの家で、ひとりでやれる限りやってみたいの」
 二人の息子さんと、特に仲が悪いわけではなくても、子やお嫁さんに気兼ねしながら暮らすならひとりのほうがずっといい。これは多くの親の正直な気持ちだろう。
 現に逸平からも、何度も聞いてきた。
「もしあなたと会わなかったら、どこか老人ホームに入るつもりだった。自分で判断できるうちに、どこか探さなきゃと思っていたんだよ」と。
「娘夫婦と同居していても、そんな風に思うのね」
 訊ねると、いつになく間髪入れぬ言葉が返ってきた。
「あいつらにボクの面倒をみるなんて、できないよ。そんな気もないだろう」
 淡々と、乾いた言い方だった。
 一緒に暮らすようになって、知美さん夫婦に何度か聞いたことがある。
「同居しながら、娘に面倒をみてもらうことはないだろうと思っているなんて、なんだか90歳にもなって、可哀想な気がしてね」と。
 ところが、知美さん夫婦の考えは違っていた。
 これほどしっかり自立しているのに、戸籍年齢だけで年寄り扱いするのは却って失礼だと、彼女たちは考えているのだ。
 なるほど。逸平が歳に似合わずしっかりしているのは、「家族だからといって、甘えあい、もたれあう関係にはならないぞ」という、彼のプライドであり、矜持なのかもしれない。

 史子との約束の日がやってきた。
 西国分寺駅で待ち合わせ、タクシーで10分ほど行った殺風景な畑の中に、その有料老人ホームはあった。
 ついこの間までは小中学生向けの教育ビジネスの最大手だった企業が、少子高齢化の時代に合わせて介護事業に乗り出したようで、このところ私のSNSにもひっきりなしにその社が運営する介護施設の広告が飛び込んでくる。
 建ってまだ間がないのだろう、落ち着いたベージュの外壁に覆われた4階建ての新しい建物にはフランス語の名がついていた。その洒落た名前が、なんとなく周囲の畑の風景にそぐわない気がして、ここが翠先生のつい住処すみかなのか…と思うと、なぜか鼻の奥がつんとなった。
第6回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。