松井 久子
第6回 有料老人ホーム
「よく来てくれたわねぇ」
 玄関ロビーで待っていると、翠先生の声がして、振り返った私たちを満面の笑顔で迎えてくれていた。
 春に国立のお宅に伺ったときよりもずっと顔色が良く、声にもハリがあった。
「お元気そう」と言うと、
「まずまずよ。さ、私の部屋に行きましょう」
 歩き始める足取りも、見違えるほどしっかりしている。
 広い廊下を後についていくと、玄関から遠くない1階の左側に先生の部屋はあった。
「ここが私の、終の住処」
 引き戸を開けると、8畳ほどの部屋にめぼしい家具はベッドのほか、1人用のテレビと冷蔵庫と小さな仏壇があるだけの、いかにも老人施設らしい無機質な部屋だった。
 入居からまだ間もないからか、それともご本人の意思なのか、生活感を感じさせない部屋の中に入ると、私は面会者用の椅子に、史子は小さなテーブルの前のベッドに座るようにと勧められた。
 先生は電気ポットのお湯を急須に注ぎながら、お茶の準備をしてくださっている。
「こんなに早くとは思わなかったけど、入ってみると住めば都。とにかくご飯の心配も、転んだり泥棒が入ったりの心配も、なあんにもなくなったからねぇ」
 思い切って決断して本当に良かったと言う。入居からわずか2ヶ月でそんな風に考えられるなんて、いかにも翠先生らしい。同時に女性の環境への適応能力にも感心させられる。
「お友達はできました?」
 訊ねると、先生は小さく首を振った。
「友達はできないわね。みんな長いこと、違う人生を送ってきた人たちだもの、互いに干渉し合わず、誰にも気を使わず、気ままに暮らすのが一番よ」
 もう新しい人間関係をつくりたいとも思わないのは、95歳という年齢のせいだろうか?
 以前逸平が、
「施設に入ったら、気の合いそうなガールフレンドでも見つけてさ、その人とのお喋りを楽しみにしたり。漠然とね、そんなことを想像していた」
 と言っていたけれど、友達が必要なのは80代までかもしれない。
「それにね、毎日予定が詰まっていて、いろいろと忙しいのよ」
 毎朝7時半と、12時と夕方6時、日に3度の規則正しい時間の食事は、栄養士によって吟味されたメニューが考えられているし、週に2回は1時間のリハビリと散歩があるし、入浴や趣味の習い事など、決められたスケジュールがびっしりで、まだやっと要介護1と認定された翠先生には、不自由と感じることが何もないのだそうだ。
 幸い健康面でどこも悪いところがないので、ときどき何の役にも立っていない自分に罪悪感を覚えることもあるのだと、ずっと働きづめで生きてきた先生は言った。
「廊下を毎日モップで拭いてる人を見るとね、あれなら手伝ってあげられそうな気がして、『あなたの仕事を私にさせてもらえないかしら?』と言ってみたのよ。そしたら笑って断られてしまったわ」
 そのできたばかりの老人ホームで、一番年長の翠先生が一番元気なのだと聞いて、私たちは心の底から安心した。
 が、そんな至れり尽くせりの有料老人ホームに、希望すれば誰もが入れるわけではない。施設に月々支払う金額を聞くと、驚くほどの高額である。
 長年教師として働いてきて、貯金も年金も十分にある翠先生のように、経済的に何不自由ない老人だけが受けられる恩恵だった。
 そして、夫に先立たれてひとり施設に入っても、翠先生と夫さんの<つがいの暮らし>は、じっさい、いまも続いているのだった。
 翠先生は、先週、長男さんに来てもらって、車で一緒に仏壇屋に行き、仏壇を買ってきたのだと話してくれた。国立のお宅にあった仏壇では大きすぎてこの部屋には合わないので、位牌と写真だけ家に戻ってとってきたという。
「毎日顔を見てるとね、やっぱり安心するのよ」
 仏壇のなか、小さな写真立てに収められた夫の遺影と語り合っていれば、「友達なんて必要ないし、寂しいとも思わない」
 きっぱり言われるのを聞いて、そうだろうなぁと納得する。
 よく、つれあいに先立たれた女性が積年の苦労から解放され、急に若返って、あちこち出歩くようになったという話を聞くことがあるが、それもまだ70代の、人生に欲のある時期の話にちがいない。
 翠先生の場合は、20代のはじめから90代の半ばまで、約70年をともに暮らした末の、伴侶との別れだった。残された者の喪失感は並大抵ではないだろう。
「お父さんがね、亡くなる日の前の夜に『お母さん! お母さん!』って大きな声で、繰り返し呼ぶのよ。『どうしたの?』とベッドに行くと、すぐにおとなしくなって、私がベッドを離れるとまた『お母さん! お母さん!』って。30回も40回も呼ばれたの。あれはいったい、何が言いたかったんだろう?」
 そして翌朝早く、長男さんが訪ねてきたのを見届けると、「お父さん」は静かに息を引き取られたのだそうだ。
 96歳の大往生。それでも妻は「2年間に及ぶ在宅介護中に、何故もっと優しくしてあげられなかったのか……」との自問を繰り返し重ねているという。
「今はもう、お父さんのご飯をつくる必要もない。自分の食事や身の回りの世話の一切を、施設のスタッフたちがしてくれる。だから私はこの部屋で、一日じゅう心ゆくまで、お父さんの魂とのお喋りに専念できる」と考えていらっしゃる。
 家に帰って、翠先生のそんな暮らしぶりを報告すると、
「いずれ僕たちも、二人で入ることを考えてもいいかもしれないね」
 と、逸平が呟いた。けれど私は、とてもその気にはなれなかった。
 まだまだ彼には、自分がつくった料理を食べさせてあげたい。あのように狭い部屋に彼の蔵書を並べることなど、とてもできないだろう。彼が本のない暮らしをしている図がどうしても想像できない。老人施設に入るということは、仕事をする必要もなくなるということだ。
 そのときが間近に来ているとは、まだ思えなかった。
 もし逸平が仕事もできなくなって、寝たきりになるときがきたとしても、介護は家で、私自身の手でしたい。最期も住み慣れた我が家で迎えさせてあげたい。
 翠先生の施設を訪問して改めてそう思った。
 でもそれは、先生の今の施設での暮らしを、寂しそうだとか、気の毒だとか思ったからではない。
 ご自分の家に心細い気持ちでいるよりずっと安心されたことが、柔和になったお顔にも出ている。
 子どもがいるのに老人ホームに入るなんて、いかにも可哀想だという考えも違うと思う。翠先生は、夫さんと二人でいる間、誰にも気がねしたり遠慮したりする生活ではなかった。
「ひとりになったからといって、今まで一度も一緒に暮らしたことのない子や孫たちと、どうして同じ屋根の下に住めると言うの?」
 そんな家族神話を信じるほど私は愚かではない。
 翠先生がそう言っているような気がして、その潔さを正しいと思い、自分もひとりになったら彼女のように、背筋をシャンと伸ばして生きたいと思った。
「多華子さん、よかったね。あなたはこれまでひとりでほんとによく頑張ってきたから、影山先生との出会いは神様のご褒美ね。おめでとう!」
 77歳になって、12歳の子どもの頃のように、先生から頭を撫でられるように褒められていた。突然、子どもの頃にタイム・スリップしたような気がして、
「ありがとうございます」
 心からお礼を言った。
「君も先生も、幸せだね。こんな歳になるまで、そんなおつきあいが続いてるんだから。どちらも健康だからできることだ」
 逸平に言われて、ほんとにそうだと思う。
「だからこれからも、できる限り会いに行くわ。先生は外出もできるというから、次は西国分寺のクルミド珈琲に行きましょうと約束しているの。あなたも一緒に行かない?」
「いいよ、ボクは」
「クルミド珈琲はあなたも好きじゃないの」
「君とあそこでデートするなら行くけど。僕がどんなに人づきあいが苦手か、知ってるでしょ」

第7回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。