松井 久子
第7回 夫婦喧嘩
 この連載を始めてから、ずっと気になっていたことがある。
 私は、夫となった影山逸平のことを、少し美化しすぎてはいないだろうか。
 書きながら、ついそんなことを考えてしまっていた。そして考えながら、改めて気づくのである。
 私たち日本の女は、自分のする話を他人様から自慢話と取られるのを、つねに怖れてきたのだと。
 私の母親がそうだった。
「謙遜」が一番の美徳と信じて、他人の前では我が子のことも悪く言う癖のついた人だった。
 いつも「自慢と取られてはならぬ」と気を使い、内心ひそかに誇らしく思っていることでさえ、他人様の前ではあえて控えめに語ってしまう。
 子どもの頃はそんな母親のことを、「噓つき。ほんとは自慢したいくせに」と批判的な目で見ていたのに、いつの間にか自分も、母と同じことを気に病む人間になっている。
 そういえば男たちも、自分の妻のことを「ウチの愚妻が」などと言うではないか。
 となるとこれは、日本社会ならではの文化かもしれない。
 小さな島国の、狭い「村社会」の文化、あるいは因習。
 明治の昔から、その因習の犠牲になってきたのは女たちである。
 日本の女性は自らが置かれた過酷な境遇に耐えて、どんな困難に遭っても泣き言を言わず、我慢して、苦労を乗り越え強く生きることを求められてきた。
 たとえば大正生まれの私の母は、あまり甲斐性があるとは言えない男のもとに嫁いで、同居する姑からの激しい嫁いびりに遭っても、何ひとつ愚痴を言わず、貧しいなかで4人の子を明るく育ててきた。そしてその傍ら、晩年認知症になった姑を、最期まで介護して看取ったひとである。
 母がまだ生きていたとき、
「あんな苦労の多い人生から、逃げ出したいと思うことはなかったの?」
 といたことがあった。そんなときの彼女の、
「こんなものだと思っていたのよ」
 と、即座に答えた言葉が、穏やかに笑っていた顔が、脳裏に焼きついている。
 女の人生とはこんなもの。離婚など考えもしなかった。
 そんな母を見て育ってきた娘の私も、自らの「幸福」を手放しで喜んではいけないような意識が染みついている。
 これだけジェンダーレスの時代になっても、根っこのところで、胸張ってフェミニズムを主張できない私がいる。
 そう、男社会の仕事の場では、ずっと男性の顔色をうかがって生きてきた。
 少なくとも昭和・平成の頃は、私のようにフリーランスの女が、仕事の場で自分の居場所を獲得するには、いくつもの作法が必要だった。
 不平を言わず、耐えて頑張る女でなければならなかった。
「母にできたのだから、私にだってできるはずだ」と己に言い聞かせ、歯を食いしばって生きる私はしかし、ウーマンリブやフェミニズムの女性たちの目には、「男にびている女」と映っていたかもしれない。
 そんなこんなで、私たち世代の日本の妻たちは、我が夫のことを褒めるよりも、ちょっと悪く言ったり愚痴ったりするほうが気が楽なのである。
 私にもそんな悪癖が身についている。頭では「男女平等」を当然と思いながら、母がしてきた流儀が、自分にも深く染みついている。
 前置きが長くなったが、今日はそこで逸平との夫婦喧嘩の話をしてみようと思う。
 夫婦になればいくつになっても、相手に対する不満や愚痴はしょっちゅうだ。
 たとえば私たちは、特別な用事のない日は二人でスポーツジムに通っている。逸平がもう半世紀近くジム通いを習慣にしてきたので、私も同居してすぐメンバーに登録させられた。
 電車で4駅離れたそのジムに行くのに、彼は必ずと言っていいほど、駅に着くなりエスカレーターの右側レーンを、大股で駆けるように上がっていく。
 ホームに電車が滑り込んでこようものなら、その電車に飛び乗りたくて、なかなか来ない私に向かって手招きしては、
「何をしてるんだ、早く来い!」と叫んでいたりする。
 そして、私がホームに着く前に電車の扉が閉まってしまえば、歯軋はぎしりするほど悔しがる。
 そういうときに必ず喧嘩になる。私にしてみれば、
「どうしてよわい90にもなって、急ぐわけでもないジムに行くのに、電車に飛び乗らなきゃいけないの? 閉まるドアに挟まれて、怪我でもしたらどうするのよ!」と、その歳を忘れた無謀な振る舞いに、心底腹が立つのである。
 聞けば、大学教授として職場に通っていた頃、「朝の通勤ラッシュの電車に飛び乗っていた癖が、まだ抜けないのかもしれないな」などと他人事のように言う。
「定年から20年経っても抜けない癖なんて…! 直そうとしないからよ」
「このね、電車を待つ時間が大嫌いなんだ」
 と言って、イライラと足踏みをしている。
 私としては、銀髪の老紳士にはもう少しどっしり構える男であってほしいのに。
 いっぽう彼にしてみれば、
「乗れる電車に乗ろうとする努力もせず、エスカレーターの上で動こうとしない君の態度は、僕に対する嫌がらせにしか見えないよ」というわけである。
 そういうときは、二人共プリプリ怒り合って、あえて別々のシートに座ったりする。
 カッとなると、互いに意地を張り合って、なかなか相手より先に折れることができないところは、よく似ているのだ。
 それでも電車を降りるときは、またどちらかが繫ぐ手を伸ばせば、すぐに仲直りができる私たちである。
 一緒になってまだ1年足らずの新婚だからだろうか、スキンシップには大いに助けられている。
 電車に乗るときは、それほどせっかちな逸平も、年相応なのかはわからないが、私から見れば相当愚図ぐずな人間である。したがって日常生活のなかで、怒ったり叱ったりはどうしても私のほうが多くなってしまう。
 来客があったときなど、できた料理をキッチンからダイニングテーブルに運ぼうとすると、いかにも邪魔になるところに、逸平が突っ立っている。
 お客様に席を勧めようともしないで、ボーッと途方に暮れたように立っているので、お客様のほうもどうしていいかわからない。
 そんなときは、彼の鈍臭どんくささに、私がキレてしまう。
「どうして立っているのよ。早く座って!」
 収まらないイライラのまま、来客に席を勧めて、彼に目をやると、
「また怒られちゃったよ…」という顔で、シュンとしている。
 そんな二人の違いは、90歳と77歳。ひと回り以上の年齢差のせいというよりも、「世間的な経験値の差だ」というのが、私たち二人の共通認識である。
 とにかく私は、ずっと長いこと仕事筋、それもライターやプロデューサーや映画監督や、人のなかでする幅広い職種を転々と重ねながら生きてきた。そのせいか良くも悪くも、半端ではない判断力や決断力が身についてしまっている。
 つまりこの歳になると、もう何かに迷ったり、ウジウジと考えるなど、ほとんど何もないのである。
 逆に、自分の学問以外のことにはほとんど関心がない逸平は、私から見れば超のつく世間知らずで、浮世離れした人である。
 だから他人様の目には、つがいの暮らしの一切を、私が仕切っていると映るかもしれない。
 が、それは単純な、とても一面的な見方で、影山逸平という男は、人一倍頑固な人間でもあるのだからややこしい。
 私のように世事に長けた人間は、内心反発していても、相手に合わせることも平気でできる。ところが世間知らずの逸平には、それができないのだ。
「媚びへつらう」とか「如才ない」などは、もっとも生き方に反する行為と思っているので、何につけても妥協というものができない。
 それで他人様とのちょっとしたいさかいなどの「なだめ役」は、つねに私の役目となってしまう。
 いつもハラハラと、初対面の方との間を取り持ちながら、「よくもそんな風に胸張って、気難しい男でいられるのね」といった内心の苛立ちはおくびにも出さず、如才なく振る舞っている。また逆に、「コワい鬼嫁」と言われても一向に気にならない。
 そんな風に、私たち夫婦は互いの個性がまったく正反対なので、喧嘩や衝突も多いが、自分にないものを持っている相手を認め合っている。
 不器用で、おべんちゃらの言えない彼が、
「あなたはほんとうにポジティブな人だからねぇ。ペシミストの僕がどれだけ救われているか…」
 とか、
「もうあなたがいなくては生きていけなくなった」
 などという言葉を、自然に、当たり前のように呟く。
 夫婦がうまくいかなくなる原因は、往々にして、あるいは無自覚に、夫が妻と張り合おうとか、妻を支配しようとすることにあるのではないか。
 私の夫になった人にはそれがない。妻と張り合ったりしなくとも、本来的な意味で自分に自信があるのだと思う。

第8回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。