「ここが七月のほっとしたところですよ」と案内をされ
小学校の頃はサッカー部で、中学校の頃はテニス部で、高校の頃は剣道部だったのだが、球を蹴りながら、球を打ちながら、ひとを斬りながら、あれ、俺なんかここにいるのちがうんじゃないの? とは思っていた。思っていたら、けっきょく、スポーツとは関係のないところに行き着いてしまった。本、に。
(でも本でひとを叩くという方法もある。ファイナルファンタジーというゲームでは学者というひとががすがす本をふりまわして炎の本や氷の本で攻撃していた。でも、もちろん、本でひとを攻撃してはいけない。本でしていいのは、げんきになったり、ねむりこんだり、きもちよくなったり、飛び立ったり、じぶんのハートをかち割ったりすることだけだ)。
ひとは行き着くところに行き着くんだなあとおもう。運命とかでもなくて。
運命っていうのは、たぶん、あとでふっときづくということだとおもう。ここにくるしかなかったんだなあ、とか、あなたにあうしかなかったんだなあ、とか。だから、予告されるものではなくて、気づくものだ。あ、運命、と。
それが、じぶんというひとりの人間が世界に約束できるかたちだとおもう。これが世界と交わしたやくそくだったのかと。あれじぶんまちがってんじゃないの、とおもっても、あれ俺まちがってないですか、とひとにいくらたずねても、それはそれで心配しなくても、行き着くところに行き着いていく。
運命ってそういう、とてもそぼくで、ありきたりで、ものすごくふつうの、ほっとしたものだと、おもう。そうあってほしい。