筋肉だけ増えてどんどん暗くなっていく
せきしろさんと又吉直樹さんの自由律句集『まさかジープで来るとは』を読んでいる。
ときどき、自由律ってなんだろう、ってかんがえる。数をきにしない句。じぶんでリズムをつくる句。
ひじがひしめく電車で、星に近いジムで、注文のこない飲食店で、ぜんぶ返し終えた日の図書館で、もうなんにも買うものはないスーパーでかんがえる。
このせきしろさんと又吉さんの本を読んでいると、自由律とは、〈そうなっちゃったこと〉なのではないかと思えてくる。
同じ手すりを握ってきた老人 せきしろ
こんな大人数なら来なかった 又吉直樹
どちらも〈そうなっちゃったこと〉だ。この〈そうなっちゃったこと〉を定型におさめず〈そうなっちゃったことの勢い〉とともにそのままおくりだす。
それが自由律なのではないか。そこには、えりを正すような気取りはない。ほんとうの、すっ裸の、そうなっちゃうしかなかったんだよ世界は、じぶんは、という隠すものがなにもない、素の世界がある。
世界はあるときそうなっちゃったんだよ。
そしてその世界のなかにいた自分はそうなっちゃったんだよ。
あなた、どう、おもう?
それが詩になったもの。
ぜんぶぬいだあとのむこうみずでまるはだかの素。
それが自由律なのではないか。
そしてたぶん、この自由律は、ときどき、おおきくなってゆく。おおきく、おおきく、なってゆく。そうなっちゃった世界として。そうなっちゃったわたしとして。そして、たぶん、きっと、小説、と呼ばれるように、なる。