「これ大事にします」とわたしは言った。

大学のころ、Kさんという先輩とずーっと一緒にいた。かれはものすごく文学ジャンキーなひとで、あるきながら、本を読んでいた。わたしたちは後楽園のあたりをよく歩いた。Kさんの年はわたしの年とひとまわり離れていた。もう樋口一葉が死んだ年も石川啄木が死んだ年も越えていたんではないか。

ある日、とつぜんKさんがわたしに、やぎもとはこの3冊を読んだほうがいいとおもうよ、と紙に書いてわたしてきたことがある。こうしたほうがいいというようなひとでもなかったので珍しかった。蟻が這ったような汚い手書きの文字で、萩原朔太郎の書いた文字に似ていた。そこには、リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』、ガルシア・マルケスの『族長の秋』、ヴォネガットの『猫のゆりかご』と書いてあった。ぜんぶ読んだことがなかったし、聞いたことのない名前だった。この3冊はこのあとの人生でわたしがずーっと大事にしていく3冊になる。でもそのときはそんなことはわからなかった。

ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』は、作者の「マヨネーズ」ということばでおわったらいいなあという想いのもと、ほんとうに、マヨネーズ。ということばで終わる。そういう不思議なマヨネーズの小説だ。いいおわりでもない。わるいおわりでもない。不思議な終わりだ。マヨネーズ。そうとしかいいようがない。そういうおわりがやってきたんだ、うけいれてくれ、という小説。ふざけてるわけでもない。真剣なマヨネーズ。意味がわからなかった。でもなんかがひっかかった。とっても大切なぬきさしならないなんかが。

Kさんから読んだほうがいいよと言われたその紙を手渡されてもわたしはすぐには読まなかった。ありがとうございます、と言ったものの、ずっと手元に控えておいて、ゆっくり読んだ。なんだか性急な出来事にしたくなかった。ゆっくりだったけれど、ちゃんと読んだ。「どうだった? 読んだ? あれ、やぎもとにとって大事な本になるとおもうんだけれど」と言うので、「いや、すいません、どれもよく意味がわからなかったです」とわたしは言った。「特にあのブローティガンは、どういうことなんですか、なにをしようとしているのかよくわからなくて」

のちのち、この「いったいあなたはなにをしようとしてるんですか?」は、なんどもなんども人生でわたしが言われる台詞になった。こないだも飯田橋で言われた。「もともとさんっていったいなにをしようとしているの?」

わたしはそのときチョコレートをすすっていたのではなかったか。

この記事を書いた人
yagimotoyasufuku
柳本々々(やぎもと・もともと)1982年、新潟県生まれ 川柳作家
安福 望(やすふく・のぞみ)1981年、兵庫県生まれ イラストレーター