言えるときに言ったほうがいい言葉言う
大学のころ、レイモンド・カーヴァーや村上春樹さんの小説を読んでいて、わたしには愛の話を書く機会なんてこないんだろうなあ、とおもっていた。
どうやってみんな、愛の話を書いてるんだろう、とおもった。カーヴァーには「愛について語るときに我々の語ること」という話があるが、四人の男女がお酒を飲みながら、愛をめぐって話し合う。でも四人は愛について話しているうちに、だんだんアルコールによって、すこし特別な感覚の世界にむかっていく。それが愛の作用なのか飲酒の作用なのかわからない。
でもそういった超感覚の場所がなんとなく愛の世界かもしれないということはわかる。つまり、よくはわからないけどここにたどりついちゃったんだよ、という感覚。
だから、わたしは愛をしっています、これが愛です、というのは信用できないかもしれない。わたしたちが愛について語れるのは、いつも愛について語ろうとしながらも、語りそこねたときかもしれない。そのときが愛について話すチャンスだ。
村上春樹さんの『ノルウェイの森』でも愛の様相はわからなくなっていく。主人公は愛のプロセスをとおしてどこでもない場所にたどりつく。
愛そうとしながら、愛されようとしながら、愛しそこね、愛されそこねていく。そこには、愛のチャンスや愛の失敗や愛の未遂がある。たまたま愛した、たまたま愛された、たまたまあいしあえなかった、がある。
リチャード・ブローティガンは、ことばはなにもないところに咲く花々、あなたを愛している、と書いた。別のところでは、「愛と、風と」と書いている。『愛のゆくえ』という本もある。かれは、ちょこちょこ愛を書いた。
カルヴィーノの『難しい愛』、カフカの「そういえば愛している」、ダン・ローズのあらゆるへんてこな愛の101の話。
「わたしのこと愛してる?」「うん、たぶん、ぜったい。きみは?」「うん、たぶん、ぜったい」
たぶんも愛。ぜったいも愛。