人間社会の闇を軽やかに生きるアンチ・ヒーロー『影男』
江戸川乱歩(春陽堂書店)

ドイツ・ロマン派の作家・シャミッソー(Adelbert von Chamisso: 1781-1838)の、『影をなくした男』(池内紀訳、岩波文庫、1985年)という小説がある。貧困に苦しむ主人公シュレミールは、ある日、見知らぬ男(実は悪魔)から影を譲ってほしいと持ち掛けられる。その代わりに、無尽蔵にお金を造り出せる「幸運の金袋」を手に入れるのだが、金があっても影がないために社会に受け入れられず、また好意を寄せた女性とも結婚することができない。困った彼は、悪魔に影を返すよう願い出るのだが……という物語である。
この小説は、作家シャミッソー本人が受け取ったシュレミールからの手紙、という形式をとっているのだが、物語の最後、その手紙に以下の文章が記される。
「友よ、君は人間社会に生きている。だからしてまず影をたっとんでくれ」
誰もが当たり前に持つ影を金銭に変えた結果、失恋後、放浪生活をせざるを得なかった男の心情が吐露(とろ)されている。
江戸川乱歩が昭和30(1955)年に発表した『影男』もまた、タイトル通り、「影」がテーマとなる作品だ。『面白倶楽部』という雑誌で1年間にわたって連載された本作は、いわゆる「通俗長編」作品であり、エロとグロがふんだんに詰め込まれた、乱歩らしい作品である。影男が関わった事件を集めた連作短編といった趣もあるし、最後には名探偵・明智小五郎と小林少年も登場するなど、サービス精神も旺盛。乱歩の最高傑作! とは言わないが、乱歩の魅力を堪能できる一冊であることは間違いない。
社会的な地位と名誉を持つ五十男が獅子に扮し、調教よろしく女性に責められるという場面から幕を開け(その男を影男がゆする)、裕福な女性たちの欲情を満たす美男子裸体格闘場、殺人請負会社を経営する男との出会いと底無し沼の殺人、恋人誘拐会社を経営する男が作った蠱惑(こわく)のパノラマ館体験、などなど短いエピソードが積み重ねられながら、物語は展開していく。影男は、次から次へと、社会の「影」ともいえる現場に足を運んでいく。
主人公である影男は、「速水壮吉(はやみ・そうきち)、或いは綿貫清二(わたぬき・せいじ)、或いは鮎沢賢一郎(あゆさわ・けんいちろう)、或いは殿村啓介(とのむら・けいすけ)、或いは宮野緑朗(みやの・ろくろう)、或いは、或いは……と無数の名前を持って」いる。また、佐川春泥(さがわ・しゅんでい)という名で作品を発表する小説家でもある。しかも、その正体は誰も知らないという、まさに「影」のような男だ。「人間というものの探求を生甲斐(いきがい)」とする彼は、敗戦後の混沌とした社会に渦巻く「欲望」に、人間の本質を見出している。
影男は、自ら手を下すことはない。殺人事件のアイデアは出すものの、その結末に対して不快感を持つような人物であり、気まぐれに不幸な少女を救ってみたりもする。「ゆすり」によって得た金に対する執着心も無い。彼は社会の「影」であり、人間の後ろ暗い欲望や願望を観察すること、そしてそれを小説化することが目的で、欲望にまみれた人間を、高みから見物することを「生甲斐」とする男なのである。
シュレミールは影を金に交換して不幸になるが、影男は影になることで得た金を使って、人生を謳歌する。目的は金でも、それによって得られる商品でもなくて、生き甲斐を得ることにある。「蓼(たで)食う虫も好き好き」ということわざもあるが、人間の欲望は千差万別、複雑怪奇なもの。フェティッシュといわれるさまざまなる嗜好は、人間が持ち得る欲望が、他者とは共有できないほど多様であることを指している。そんな社会の影といえる、さまざまな欲望・願望が渦巻く世界で暗躍しているのが、影男なのだ。
ひるがえって、現代を生きる僕らは、はたして、影を見つめることができているだろうか。「影をたっとぶ」ことができているだろうか。美しい言葉や美しい理想にばかり気を取られ、その背後にあるはずの「影」から目をそむけてはいないだろうか。
『影男』に登場するアウトローたちは、それぞれ、社会の暗部でビジネスをしている。彼らのビジネスが成り立つのは、人間が「影」を、後ろ暗い欲望・願望を持つ存在だからだ。時に人は、他者を殺してしまいたいほどに恨み、大金を手にしたいと願い、地位と名誉を得ることを望む。妖艶なるエロスの世界に身を投じたいと思うこともあるだろう。そのさまざまなる欲望・願望が、アウトローたちのビジネスを成り立たせている。影男は、そこにこそ、「人間」を見ている。
繰り返そう。僕たちはいま、「影をたっとぶ」ことができているだろうか。人間がどうしたって抱いてしまうどす黒い怨嗟(えんさ)や、破廉恥(はれんち)な願望を、直視できているだろうか。「それが人間なのだ」といえる寛容さを持ち得ているだろうか。影男は、社会的には犯罪者である。それでも、人間の欲望も願望も受け止める寛容さを持ち、かつそこで金を稼ぐだけの狡猾さを持ったそのキャラクターに、読者は惹きつけられてしまう。影男は、明智小五郎の裏の顔とも思えてしまうほどに魅力的な、人間社会の闇を軽やかに生きるアンチ・ヒーローなのだ。

文/堀 郁夫(春陽堂書店)


『影男』(春陽堂書店)江戸川乱歩・著
本のサイズ:A6判(文庫判)
発行日:2018/10/3
ISBN:978-4-394-30162-2
価格:990 円(税込)

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春陽堂書店編集部
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