日本のミステリー小説を語る際に欠かすことができない作家、江戸川乱歩。
1925年に春陽堂が刊行した『心理試験』は、「二銭銅貨」や「D坂殺人事件」といった
初期作品を収めた、乱歩にとってはじめての創作集でした。
それ以来、春陽堂と乱歩のつながりは強く、多くの書籍を刊行してきました。
1955年には、全16巻の『江戸川乱歩全集』を、
1987年には、装丁を飾った多賀新の銅版画が好評を呼んだ『江戸川乱歩文庫』(全30冊)の刊行もスタートしています。
2015年には、『江戸川乱歩文庫』の中から人気のある13冊をリニューアル版として刊行、2018年からは第二期として、残りの17冊の刊行が始まりました。
ここでは、各文庫の読みどころを紹介していきます。


人間社会の闇を軽やかに生きるアンチ・ヒーロー『影男』
江戸川乱歩(春陽堂書店)

ドイツ・ロマン派の作家・シャミッソー(Adelbert von Chamisso: 1781-1838)の、『影をなくした男』(池内紀訳、岩波文庫、1985年)という小説がある。貧困に苦しむ主人公シュレミールは、ある日、見知らぬ男(実は悪魔)から影を譲ってほしいと持ち掛けられる。その代わりに、無尽蔵にお金を造り出せる「幸運の金袋」を手に入れるのだが、金があっても影がないために社会に受け入れられず、また好意を寄せた女性とも結婚することができない。困った彼は、悪魔に影を返すよう願い出るのだが……という物語である。
この小説は、作家シャミッソー本人が受け取ったシュレミールからの手紙、という形式をとっているのだが、物語の最後、その手紙に以下の文章が記される。
「友よ、君は人間社会に生きている。だからしてまず影をたっとんでくれ」
誰もが当たり前に持つ影を金銭に変えた結果、失恋後、放浪生活をせざるを得なかった男の心情が吐露(とろ)されている。
江戸川乱歩が昭和30(1955)年に発表した『影男』もまた、タイトル通り、「影」がテーマとなる作品だ。『面白倶楽部』という雑誌で1年間にわたって連載された本作は、いわゆる「通俗長編」作品であり、エロとグロがふんだんに詰め込まれた、乱歩らしい作品である。影男が関わった事件を集めた連作短編といった趣もあるし、最後には名探偵・明智小五郎と小林少年も登場するなど、サービス精神も旺盛。乱歩の最高傑作! とは言わないが、乱歩の魅力を堪能できる一冊であることは間違いない。
社会的な地位と名誉を持つ五十男が獅子に扮し、調教よろしく女性に責められるという場面から幕を開け(その男を影男がゆする)、裕福な女性たちの欲情を満たす美男子裸体格闘場、殺人請負会社を経営する男との出会いと底無し沼の殺人、恋人誘拐会社を経営する男が作った蠱惑(こわく)のパノラマ館体験、などなど短いエピソードが積み重ねられながら、物語は展開していく。影男は、次から次へと、社会の「影」ともいえる現場に足を運んでいく。
主人公である影男は、「速水壮吉(はやみ・そうきち)、或いは綿貫清二(わたぬき・せいじ)、或いは鮎沢賢一郎(あゆさわ・けんいちろう)、或いは殿村啓介(とのむら・けいすけ)、或いは宮野緑朗(みやの・ろくろう)、或いは、或いは……と無数の名前を持って」いる。また、佐川春泥(さがわ・しゅんでい)という名で作品を発表する小説家でもある。しかも、その正体は誰も知らないという、まさに「影」のような男だ。「人間というものの探求を生甲斐(いきがい)」とする彼は、敗戦後の混沌とした社会に渦巻く「欲望」に、人間の本質を見出している。
影男は、自ら手を下すことはない。殺人事件のアイデアは出すものの、その結末に対して不快感を持つような人物であり、気まぐれに不幸な少女を救ってみたりもする。「ゆすり」によって得た金に対する執着心も無い。彼は社会の「影」であり、人間の後ろ暗い欲望や願望を観察すること、そしてそれを小説化することが目的で、欲望にまみれた人間を、高みから見物することを「生甲斐」とする男なのである。
シュレミールは影を金に交換して不幸になるが、影男は影になることで得た金を使って、人生を謳歌する。目的は金でも、それによって得られる商品でもなくて、生き甲斐を得ることにある。「蓼(たで)食う虫も好き好き」ということわざもあるが、人間の欲望は千差万別、複雑怪奇なもの。フェティッシュといわれるさまざまなる嗜好は、人間が持ち得る欲望が、他者とは共有できないほど多様であることを指している。そんな社会の影といえる、さまざまな欲望・願望が渦巻く世界で暗躍しているのが、影男なのだ。
ひるがえって、現代を生きる僕らは、はたして、影を見つめることができているだろうか。「影をたっとぶ」ことができているだろうか。美しい言葉や美しい理想にばかり気を取られ、その背後にあるはずの「影」から目をそむけてはいないだろうか。
『影男』に登場するアウトローたちは、それぞれ、社会の暗部でビジネスをしている。彼らのビジネスが成り立つのは、人間が「影」を、後ろ暗い欲望・願望を持つ存在だからだ。時に人は、他者を殺してしまいたいほどに恨み、大金を手にしたいと願い、地位と名誉を得ることを望む。妖艶なるエロスの世界に身を投じたいと思うこともあるだろう。そのさまざまなる欲望・願望が、アウトローたちのビジネスを成り立たせている。影男は、そこにこそ、「人間」を見ている。
繰り返そう。僕たちはいま、「影をたっとぶ」ことができているだろうか。人間がどうしたって抱いてしまうどす黒い怨嗟(えんさ)や、破廉恥(はれんち)な願望を、直視できているだろうか。「それが人間なのだ」といえる寛容さを持ち得ているだろうか。影男は、社会的には犯罪者である。それでも、人間の欲望も願望も受け止める寛容さを持ち、かつそこで金を稼ぐだけの狡猾さを持ったそのキャラクターに、読者は惹きつけられてしまう。影男は、明智小五郎の裏の顔とも思えてしまうほどに魅力的な、人間社会の闇を軽やかに生きるアンチ・ヒーローなのだ。

文/堀 郁夫(春陽堂書店)


関連書籍
『影男【リニューアル版 】』(江戸川乱歩文庫・春陽堂書店)
影男。その正体は、速水荘吉・綿貫清二・鮎沢賢一郎・殿村啓介・宮野緑郎と無数の名をもつやせた男。さらに小説家としては佐川春泥という名で知られ、その執筆する怪奇異風の小説は世にもてはやされていた。このふしぎな男は何をもくろむのであったか。どんな人間も持っているヒミツの裏側を探求するのが影男の目的であった。連続する奇々怪々な事件。名探偵・明智小五郎の明推理はいかに。
この記事を書いた人
春陽堂書店編集部
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