【第59回】


「大人の休日倶楽部」ひとり旅
 JR東日本のお得な切符「大人の休日倶楽部パス」を使って6月末から7月初め、旅をしてきた。そのご報告を。ちょうど梅雨のさ中で、雨天の観光地での行動は著しく制限される。いくつか予定を計画した上で、その朝の天気を確認してから(雨の地域はパス)行動することにした。コロナ禍とあって、新幹線の座席指定も、乗る直前に駅の券売機でじゅうぶん間に合う。繁忙期や行楽シーズンではとても無理なやり方だ。
 結論を先に申せば、第1日目は直江津から長岡。第2日目は上田から別所温泉。第4日目は盛岡。第3日目がないのは、4日連続という限定パスだが、私は基本日帰り旅のため、間で1日休んだ。もったいない使い方だが、それでもあとで計算したら「東日本フリーエリア」4日連続1万5270円の料金で、6万円分は乗ったことになる。まずは御の字だ。もちろん4日間全部を使うこともある。
 毎度、繰り返しになって恐縮だが、このパスを購入すると、東京から仙台まで新幹線料金を含む運賃が通常は1万1410円だから、往復すればこの1回で元を取るわけである。私は東京駅始発を使わず、時間短縮となる大宮駅から乗り込むことが多い。このことも前に書いた気がするが、いちおう念のため。

海が見たくて直江津へ
 最初に「直江津」へは行こうと決めていた。その日の天気はさいわい曇り。なによりも日本海が見たいと思ったのだ。加えて、私の編となる野呂邦暢『愛についてのデッサン 野呂邦暢作品集』(ちくま文庫)に「直江津」が登場する。若き古本屋店主が古本にまつわる謎を追って全国を旅する連作短編集。その第2話「愛についてのデッサン」で、主人公の佐古が行く先のない旅に出て、長野で一泊し、急行「越前」に乗り込み「直江津」で下車する。「啓介は日本海を見たかった」「以前から直江津という町を一度訪ねてみたいと思っていた」というのが理由。私もそれを真似たのだった。
 この作品が書かれたのは1979年。まだ上越、北陸ともに新幹線は開業していない。現在は便利になり、北陸新幹線を使い上越妙高駅で「妙高はねうまライン」に乗り換え、4つ目が終点の「直江津」だ。JR東日本と西日本を日本海側で分ける境界駅。私の場合、最寄り駅から直江津まで3時間かからない。家を出る時、カバンに入れたカラーブックス『おもしろ駅図鑑① 東日本』(保育社/1988)に、旧「直江津」駅の写真がある。「頭でっかちの三角屋根駅舎はユーモラスに見え、大きな駅名表示もあたりを払う」とある。これは3代目の駅舎で、ホームから地上改札を経て、そのまま駅前に出られたようだ。
 地上ホームはそのままで現在は改札が自由通路を持つ橋上に。駅舎も大型客船を思わせる丸窓、階段状の構造を持つモダンなものに建て替わった(2000年)。駅前に出て、周囲に飲食店らしきものが見当たらない。カラオケもコンビニもない。観光地図をもらいに観光案内所へ行く途中、立ち食いそば店を発見。帰りにここで昼飯を済まそう。
 自転車を借りられると案内所で聞き、駅前の大通りを歩きだす。市から委託されているという自転車店はドアが閉まっていた。呼び鈴を押せば奥の母屋から人が出てくると書かれてあったが、面倒になってそのまま歩き出す。海までは500mぐらいと聞いた。もらった地図「直江津物語の旅」を見ると、北前船の寄港地として発展した町のようだ。中世より安国寺、至徳寺など、多くの高僧や文人が訪れ「越後府中文化」の華が開いたという。近年では林芙美子が『放浪記』の中で直江津について書き、文学碑が立っている。そうかそうか。

 とにかく海を目指そう。ほとんど行きかう人と出会わない、ひっそりかんと静まり返った町だが、商店街は雪国らしく雁木という木製アーケードが頭上に架かっていた。観光案内所で「古い町並みが残るところを歩きたい」と言うと、「三八通り」およびその周辺を推薦された。そこを通り抜ければ海へ出る。思えば生まれてから住んだ街で、海の近くというのはなかった。海への憧れが強いことに年取ってから気づくようになった。海を見るためだけに遠出することは、少なくとも20代、30代にはなかったことである。若いころに抱いた「淋しさ」とは別の「淋しい大人」になった時、海の慰めを知ったのである。
 3・8朝市通りという、それなりに広い南北の道を抜けていく。行き当たった琴平神社には、「安寿と厨子王の供養塔」(森鴎外文学碑)があった。鴎外「山椒大夫」は、幼い姉弟が人買いのたくらみで母親と引き裂かれ、売られていく話。それが直江津だった。碑の目の前はもう海だ。日本海を臨む砂浜には防波堤、テトラポットを積み上げて荒い波を防いでいる。初夏の海はおだやかだ。白い砂浜が弧を描いて半島のように突き出た岬まで続き、青や黄の小さな船が裏返しに浜で寝ていた。持参したスケッチブックに砂浜と海の絵を描いてみる。その目の端に防波堤の外を歩いている男性が映る。見ていると、日本酒らしき小瓶を2本、防波堤の上に置いて、海をバックに写真を撮っている。何をしているのだろう?
 こういう時、私はわりあい平気で初対面の他人に話しかけることができる。「なにをされているんですか?」と聞くと、いかにも業界ふうのオシャレな眼鏡をかけた男性(40歳くらい)は地元のラジオ局に勤めていて、ホームページにアップする写真を撮りにきたのだという。そこで会話が始まった。「どちらから?」「東京からなんです」「今日は直江津にお泊りですか」「いえ、このまま日帰りなんです」と会話すると、「ええ、もったいない。せめて2泊はしてほしいですね。直江津はおいしいものがたくさんあって、東京の3分の1の値段で食べられます」と言われてしま
った。(早くそういう身分になりたいものです)と、これは心の中でつぶやく。


人魚とライオン像

 海沿いに緑地化された公園があって「船見公園」と名付けられている。ここの名物が「赤いろうそくと人魚像」。新潟出身の小川未明が書いた童話「赤い蝋燭と人魚」にちなむとのこと。北国の波の音が聞こえる悲しい童話である。人魚のブロンズ像は青色だった。大きなライオン像のある旧直江津銀行も見に行く。白い擬洋風建築の社屋は明治30年代のものらしいが、大正4年に解散となり、建物を惜しんだ「石炭王」髙橋達太が現在の地に移築し、長く保存されることになった、ということです(ガイドマップより)。ライオン像は移築した際、髙橋が鬼門除けのため設置したようです。私、直江津、くわしいです。

 高台にある「大神宮」に参拝。おみくじを引いたら「大吉」だった。長い急な階段を降りて駅へ向かう。やたらに寺や神社がある街だ。北前船の寄港地であり交通の要衝であった過去の繁栄を感じさせる。現在は寂れてしまっても、その名残りは心地よいものだ。浜辺であった男性が言うように、いつか泊まりで訪れて、朝の海も見たいものです。

「直江津庵」で名物「メギスそば」を
 直江津から特急「しらゆき」号に乗車し、長岡へ行くつもりだった。「しらゆき」は、新井駅・上越妙高駅から日本海沿いを走り、柏崎で内陸へ切れ込んで長岡を経由し新潟駅間を結ぶ。私は13時22分の直江津発に乗るつもり。昼飯がまだで、さきほど目をつけておいた駅そば「直江津庵」へ入る。外観は「立ち食いそば」と呼ぶべきかもしれないが、ちゃんと椅子があるスタイル。入口ガラス戸に「名物もずくそば・うどん メギスそば・うどん」と紙に書いて貼ってあった。「メギスそば」とは? 写真を見ると魚の天ぷらだ。これにしよう。券売機で510円。おにぎり160円(サケ)もついでに。
 カウンターの向こう、おばさんが一人できりもりしている。「メギス、って何ですか」と聞く。「キスのことです。白身の魚でおいしいですよ」とのこと。できあがりを椅子席まで運ぶ。丼が熱いなあ。北国だもの、熱々が身上と心得ております。出汁は真っ黒かと思ったら、赤めのやや薄い醤油色。とにかく熱くて、何度も丼を下に置いた。熱さもうまさ、と私が力説している通りだ。麵は並みの柔らかめ。海藻が入っているだろうか。天ぷらのめぎすも、たんぱくなくせのない白魚で、ほろほろと口の中でほどけて結構でした。ランクは並の上。
 次々とお客さんが入ってきて、駅前に飲食店がないせいか地元民に重宝されているようだ。男性が「めぎすそばにかき揚げ(トッピング)」という注文をして、カウンターにあったおにぎりを見るや、「あれ、ハイマートのおにぎりか。じゃあひとつもらおう」と追加注文をした。ひどく得したようなリアクションだ。え、そうなの?
私の手元に残るおにぎりの包みに「新潟県産米使用 ホテルハイマート(直江津駅前)」という白いシールが貼ってある。もう食べちゃったけど、そうか直江津では有名な「うまいおにぎり」なのだ。それを聞いてから食したかったが、じんわりありがたみが増してきた。人にこのことを話すときは、「いやあ、やっぱり米が違うのよ。塩加減もよくて、パリっとしたノリに相性ばつぐんでさあ」と感想を捏造することにしよう。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『明日咲く言葉の種をまこう──心を耕す名言100』(春陽堂書店)岡崎武志・著
小説、エッセイ、詩、漫画、映画、ドラマ、墓碑銘に至るまで、自らが書き留めた、とっておきの名言、名ゼリフを選りすぐって読者にお届け。「名言」の背景やエピソードから著者の経験も垣間見え、オカタケエッセイとしても、読書や芸術鑑賞の案内としても楽しめる1冊。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。