【第100回】


気がついたら「100」回だ
 春陽堂書店ウェブ誌上で、この「オカタケな日々」を隔週で連載して足掛け5年目となるのか。今回でぶじ「100」回を迎えることになった。ありきたりな挨拶になるが、読んでくださっている人があっての仕事である。ありがたいことだと思っております。
 連載は『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店刊)にまとまった。へえ、そうなのと今、気づかれた方はちょっとチェックして見てください。
 何か「100」回を記念するようなことを、とも思ったが、これを書いているのは2月初旬で、誌上にアップされるのは約1カ月あとになるはず。タイムラグがあるので気分もずれる。3月は誕生月で28日に私は66歳となる。60(還暦)を越えてしまうと、もう1年2年の経過はあまり感慨もなく、ただ明らかに年を取ったなあ、と思うだけだ。
※「100」回を記念するようなことをいたします! 詳細は当ページの最後で!(春陽堂書店編集部)

溜まった写真ストックから
 日頃から外出した際にスマホを携帯し(家の中では持たない、見ない)、これぞと思ったものをカメラ機能で撮影してきた。この連載で使おうという意識もつねにある。ところが、メモ代わりにカシャカシャとシャッターボタンを押すため、実際に使える以上の写真のストックが溜まってきた。今回、少しそれを消化したい。だから文章はキャプション程度。
 さて何から行くか。最近で1日のうちにもっともシャッターを切ったのは1月27日だ。この日は、夜に池袋のデザイナーのマンションで『憧れの住む東京へ』(本の雑誌社)の出版を祝い、担当編集者、装幀をしてくれたデザイナー、そして私の3人が集まることになっていた。都心に出るからと、ほかにもう1件、光文社の旧知の編集者に面会し、ある企画(単行本の文庫化)の打ち合わせを入れた。Mくんは、ほかの部署からちょうど文庫編集部に移ったところでタイミングがよかった。……あれ、文章が長くなっているぞ。あとは素早く、写真を中心に──
1 護国寺で富士塚
 光文社からほど近い「護国寺」へ参詣。じつは初めて。山門をくぐってすぐに富士塚がある。実際に富士登山ができない庶民のため作られたミニ富士で、江戸市中各所にあった。現在でもそれが残っていて、ただし登れるのは、富士山の山開きの日や元日など限定されていることが多い。ここは通年でフリー。ごつごつした岩の集積につづら折りの登山道が作られている。ものの数分でてっぺんだ。
2 文学の神様のお墓へ
 護国寺内の墓所を抜け、首都高5号線高架下をくぐって「雑司ヶ谷霊園」へ。こちらはお久しぶり。ぜひ、夏目漱石の墓に手を合わせていこう。漱石『こころ』の「先生」も自殺した友人の墓を詣でるため、この霊園へ足を運んだ。下調べしなくても、霊園内に案内板がある。いつ見ても立派な墓だ。文学の神様に文運の上昇を祈願する。
3 古書往来座
 雑司ヶ谷霊園を後に都電荒川線の線路をまたぎ南池袋へ。明治通り沿いに「古書往来座」がある。この夜の祝宴のメンバーとはここで待ち合わせ。広い店内に相当量の古書を蔵する優良店だ。店主の瀬戸くん始め、スタッフとも顔なじみ。やあやあと挨拶する。故・宝田明旧蔵書に値がつけられたコーナーあり。高嶋進『ジァンジァン狂宴』(左右社)を1000円で買う。
4 ひさびさに自分の絵と対面
 往来座からすぐの高層マンションの一室が、デザイナーの真田幸治くんの仕事場兼自宅。真田くんは小村雪岱の研究家でもあるから、当然ながら蔵書量もすごい。3年前に八王子「白い扉」で開いた岡崎武志絵画展で、いちばん高く値をつけた水彩画を買ってくれたのが真田くんだ。9万円ぐらいしたのではないか。「ぼくはお義理で絵を買ったりしません。これは本当にいい絵ですよ」と真田くんが言ってくれた、その絵を見ながら酒を飲みたいと所望し、わざわざ出してきてくれた。自分の絵を前に酒を飲んだ。なかなかいい絵ではないか。


日野草城「ミヤコホテル」連作論争
 高井有一(1932~2016)については、以前にも書いたことがある。いわゆる「内向の世代」に属する作家で、共同通信記者を経て作家として独立、1965年下半期に芥川賞を受賞している。
 例によって100円で買った『作家の生き死』(角川書店)を読んでいて「!」と思ったことを書いてみる。帯文には「立原正秋はじめ、今はなき文学者の生と文学を、自らの人生と重ねつつ追懐した実感的作家論」とある。つきあいの深かった立原正秋については、8つの文章が第Ⅰ章に独立してまとめられている。
 私がここで触れたいのは第Ⅱ章にあたる「回想の作家たち」。ここに4本書かれた「中村草田男」に注目した。中村草田男(1901~83)は俳人。「降る雪や明治は遠くなりにけり」は「手を上げて横断歩道を渡ろうよ」、「それにつけてもおやつはカール」と並ぶほど人口に膾炙かいしゃしたフレーズだ。作者を中村草田男と知らずに暗誦している方も多いだろう。
 本名・中村清一郎は戦中の中国生まれで、俳句の名門、旧制松山中学を経て、最終学歴は東京帝大卒。まあ、どこにでも書いてあることはこの際はぶきましょう。長らく成蹊学園の中高部、そして大学で教壇に立った。高井有一(田口哲郎てつお)はその教え子である。だから、著名な俳人である前に恩師としての記憶がここに綴られて、貴重な証言だ。
「私が先生を師と呼ぶのは、本当は烏滸をこがましいのかも知れない。私は成蹊学園の中学、高校に在学した六年間に、先生の国語の授業を受け、文芸部の回覧雑誌に書いた拙い文章を読んで頂いたりはしたが、先生を俳句の師として事へたわけではないからである」
「事へた」は「つかへた」と読むが、私は用語として初めて見た。「師事する」の「事」であろう。なお、高井は旧かなの使用者である。
 時代は昭和20年代。高井は10代、中村先生は40~50代か。当時の成蹊学園は「校舎の後ろには畑が拡がり、その所どころに、防風林に囲まれた農家が海に泛ぶ島のやうに見えた。そして先生は、学校の寮の一室に住んで」いたという。
 生徒として見た中村先生の印象はこうだ。
「先生は日頃は穏やかであり、授業は地味であつた。授業中に悪戯する者があつたりして教室がざわめくと、アクセントが語頭に来る伊予訛で、『止めて、止めて』と嘆くやうに制せられたのが思ひ出される」
「止めて、止めて」というような生易しい制止では、ひっくり返った教室を収められなかった教師時代の私としては、微笑ましく牧歌的にさえ思える授業風景だ。
 今回、ここに中村草田男を取り上げるポイントは次に出てくる。生徒だった高井が中村先生の別の一面を知ったのは「高校卒業間際に有名な〈ミヤコ・ホテル論争〉に関はる『尻尾を振る武士』を読んだときである」。「有名な」と言うが私は知らなかった。あわててネット検索すると、次々とこの「論争」に言及した文章が現れた。俳句史上では、「応仁の乱」「関ケ原の戦い」のごとく周知のことだったようだ。
 ことの起こりは日野草城そうじょうが雑誌『俳句研究』に発表した連作「ミヤコ・ホテル」。新婚初夜を題材とした10句だった。これを中村は「無恥な所業」「悪臭の結晶」と激しく糾弾した。草城が反論、文壇を巻き込んでの賛否の応酬となった。一体どんな句なのか。私が現代俳句について知るため、まず開くのが山本健吉『定本 現代俳句』(角川選書)。そこに連作から引かれている。
「けふよりのと来てつる宵の春」「夜半の春なほ処女をとめなると居りぬ」以下、初夜の一夜から翌朝「失ひしものを憶へり花曇」までが描かれる。エロ小説に比べれば、奥ゆかしく、おとなしい表現かと思われるが、草田男は許せなかった。山本健吉によれば「新婚の初夜はかくもあろうかという想像句であって、特殊な体験に基づいたもの」ではないという。だから怒ったって仕方ないのであるが、俳句の世界にこうした生々しい男女の性愛を持ち込んだところが引っかかったようだ。
 山本健吉もまた、この連作を「全く概念的な発想」であり、「『泊つる』とは『船泊ふなはて』などと船の到着に言う万葉語であって、濫用もはなはだしい」と批判している。俳句の門外漢の私には、俳句という制限のある小さな器に、日野草城が持ち込んだ実験性をよしとし、面白いとも思う。「麗らかな朝の焼麺麭トーストはづかしく」なんて、それほどいい句とは思えないが、後朝の若々しい恥じらいをうまく映している。

(写真とイラストは全て筆者撮影、作)
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※キャンペーンは終了しました。ご応募ありがとうございました!

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。