【第77回】


私は深夜の電車で寝過ごして終点まで行ったことがない
 人と話していて、ああそういえば自分にはそんなことがないと、改めて気づくことがある。他人が鏡となって、自分の姿が映し出されるのだ。とはいっても、何もたいそうな話ではない。過去に何人か、酔っぱらって帰りの電車で寝落ちしてしまい、そのまま終点まで行ってしまった、しかも何度も同じ目に遭ったという話を聞いたのである。それが終電であった場合は悲惨で、家に帰れなくなる。帰るとしたら駅前のホテルに宿泊するか、タクシーを飛ばすか、深夜営業の居酒屋やカラオケで朝を待ち、始発で……となる。
 それを聞いて、いつも「いや、ぼくは過去に一度もそんなことはなかったなあ」と答えると、終点野郎たちはみな驚いて「ええ、本当ですか!」と返される。いや、冷静に考えても、これまで酔って電車に乗り、ひと駅ぐらいは寝過ごしたことはあってもそれ以上はない。降りる駅が近づいて「ああ、もうすぐだな」と安心して寝落ちしてしまうようだ。それでもすぐ気がつく。大けがはしない。
 いま、寝過ごし常習者を何人か頭に思い浮かべて書いているのだが、彼らはいったん車内で沈没すると、熟睡の底まで降りていって浮かびあがることが少ないらしい。これが大けがの元となる。先日も、鎌倉へ一緒に行った知人と「寝過ごし」の話になった。彼は渋谷を起点とした郊外電車に乗り換える。危ないのは、この日の帰りに乗ったJR横須賀線だ。久里浜から東京を結ぶ路線だが、なかに総武線に乗り入れて延長する便がある。これに乗って寝過ごすとやっかいだ。終点が千葉県の「君津」(内房線)、同県の「上総一ノ宮」(外房線)となると、神奈川、東京、千葉と3都県を越境する。彼は「上総一ノ宮」まで行ったことがあるという。「それからどうしたの?」と聞くと、「ぎりぎり上りの終電に間に合って、どうにか渋谷までは帰ってきました。あとはタクシーでした」と言う。この夜も、並んで座って湘南新宿ライナーに乗ったが、そんな話をしたばかりだったのに彼は沈没し、私が渋谷で彼を起こしたのだ。もし一人だったら、そのまま乗り続けていただろう。これは逆もあって、東京駅から品川駅乗り換えで山手線、という人が寝過ごして品川を通過し(ちょっと早いけど)久里浜まで行ってしまう。
 中央線組で言うと、「国分寺」で降りるところを終電で寝過ごして「高尾」まで行くというのはよくあることらしい。年末の忘年会シーズンには「寝過ごし救済バス」(0時半高尾発、八王寺行き)という臨時バスがあったそうで(現在は運休中)、それだけ需要があるわけだ。この「高尾」止まりを何度か経験した知人は、一度はタクシーで帰宅。もう一度は駅の近くの駐車場の片隅で仮眠を取って始発で帰ってきたらしい。日本は治安がいいとはいえ、危ないよそれは。
 それでも「高尾」はまだ傷が浅い。中央本線「大月」(山梨)での寝過ごし終電は深刻だ。現在は終電の時刻が早まったが、かつて25時10分着「大月」という最終便があった(現在は24時台)。「大月」は駅前にビジネスホテルはあるものの、調べたら「中沢屋」は3室しかない。いきなり深夜に予約なしで泊まれるだろうか。タクシー利用だと八王寺や立川あたりまで2~3万円はかかる。「大月」なら安いアパートがひと月、借りられますよ。あとは24時間営業の居酒屋チェーンか、カラオケ店で朝まで時間をつぶすしかない。これはつらいなあ。
 怖い目に遭ったことがない私がつべこべ言うのも何だけど、今はスマホがあるんだから、目覚ましをかけた方がいいんじゃないかと思う。常習者なら誰でも考え付く予防策だが、その前に沈没してしまうのか。私はなぜ酔っぱらっても寝過ごさないのか。思い当たるのは、酒に強いのだと思う。泥酔ということがほとんどない。あとは、酔っぱらっていてもけっこう本を読むのも予防になっているだろう。小心者ということもあるか。一度「寝過ごし」派の失敗談を思う存分聞かせてもらいたい。情けない話はおもしろいものな。

ヴェラの愛車はランドローバー・ディフェンダー
 3日間かけてAXNミステリーチャンネルで、シリーズ40話が一挙放送された『ヴェラ ~信念の女警部~』シリーズを録画した。これを3月に毎日、2~3本ずつ見ていた。ご苦労なことであるが、しばらくの楽しみともなった。シーズン10まであって、各4話ずつ。面白くなければ続かない。原作は現代英国ミステリの人気作家であるアン・クリーブスで、小説版も刊行されているようだが、いまだ邦訳はない。
 2011年から放送開始し、今年、新シリーズ「11」が放送されるというから長寿の人気シリーズだ。新作が見られるのはうれしい。ざっと海外ドラマを紹介するサイトから「あらすじ」を。

「舞台は、イングランド北東部ノーサンバーランド。警部ヴェラは、寝食を忘れるほどの仕事中毒人間で、事件捜査に没頭する。さらに時折反論もできないほど辛辣な言葉を発し、部下のプライベートに影響を与えることも多々ある。しかしそれは、彼女が捜査に情熱を傾けるが故であり、それほどまでにヴェラが捜査にのめり込むのは、「事件の裏に隠された哀しみや憎しみ、人間の心の機微を深く読み取ってのことだ」と署内の人間も理解している。そのため、チームの絆は強い。」(「海外ドラマNAVI」)。

 独身、ワーカホリック、しかも警察内の自室引き出しにウィスキーを忍ばせ、みなが帰ったあと、ときどきグラスを傾けている。荒くれ男や暴言を前にしても決して引かない、絶対に真相を暴き出す、あきらめないところが「信念」。ヴェラを演じるのはイギリスの女優、ブレンダ・ブレシン。本国では名優らしいが、私は知らなかった。「おばさん刑事」ということだが、ブレンダは今年72歳になるはずで、それが現役の「警部」とは、ほとんど冗談みたい。ドラマの中では50代ぐらいの設定か。
 くたびれたコートとくしゃくしゃになった帽子がトレードマークで、女版コロンボといった風情あり。拳銃を所持しない点も似ている。手向かう者や容疑者と殴り合うこともない。武器は行動力と観察、そして言葉である。悪党の脅しにも屈せず、絶対に引くことはない。言わせたいだけ言わせておいて、ニコッと笑うこともあり。肝っ玉母さんだ。
 公用の警察車両を使わず、私用(だと思う)の「ランドローバー ディフェンダー」という実用一点張りの車を愛用し、自らハンドルを握る。洗車なんかしないので、汚い。相棒で部下の刑事エイデンに「ボロ車」とか、スクラップ工場を訪れて駐車した際「廃車ですか」などとからかわれる。そういう場合、つまり冗談を言われた場合、ヴェラは「笑えないわ」といなすのだ。
 車高が高く、いつもヴェラは苦労して乗り降りする。悪路に強いのが特徴らしい。そして「ボロ車」というが、じつは高級車で500万円以上する。チャーチルや白洲次郎が乗っていた由。なんか、それで感じが分かりますね。海辺の古びた町、広がる起伏のある田園や森の風景描写も美しい。日本の刑事ドラマで、こんなに風景を丁寧に撮るってことがあるだろうか。脚本にも金がかかっていることがよくわかる。コクがあるというのですか。人間ドラマが照射する奥行きが深く、本当に見ごたえがあるのです。



高円寺、喫茶「ポピンズ」
 繰り返すが私は喫煙可の喫茶店でのみ数本、たばこを吸う。よく立ち寄る町の「席で紙タバコを喫煙可」の店をチェックし、いつも携帯するスケジュール帳に書き込んでいる。この日は杉並区「高円寺」。古書会館の即売会の帰り、目をつけていた店に立ち寄ってみた。初めて入る喫茶店だ。
 住所は東京都杉並区高円寺南4-27-17 恒陽サンクレスト高円寺 B1F。高円寺駅南口の「四丁目カフェ」の脇から南へ延びていく路地をしばらく歩くと右側に見える。入口は階段があって店は半地下。店名が「メリー・ポピンズ」に由来することは、看板のイラストでわかる。
 落ち着いた雰囲気のおしゃれな店だ。入ってすぐ脇に丸テーブルの4人席。その奥は長いカウンター。常連客はたいていカウンターに座るみたい。紫煙を煙らせながら、年経た女性たちが大声で語り合っている。
 私には連れがあったので、丸テーブルに座る。「(ここ)いいですか?」と痩身、眼鏡、短髪の気難しそうなマスターに尋ねると、「ああ、どうぞ」と言われてホッとする。紙のおしぼりと水(コースターは布)がすぐ出され、丸い灰皿は最初からテーブルに。さっそく、たばこに火をつける。
 壁の棚にずらり、多種多様なコーヒーカップが並べられ、あるいは好みのカップを指定できるのかもしれない。まあ、こちらは初心者だからおまかせ。コーヒーは、花と蔓をあしらった小ぶりのカップで出てきた。おや、コーヒーも一杯ずつ丁寧に入れるらしくおいしいぞ。「おいしい、おいしい」と声に出して、おいしさを確認する。
 カウンターでは相変らず、常連客のおしゃべりと紫煙が続く。思いがけず、いい店に当たったなあ。コーヒーは500円。

(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。