南條 竹則
第32回前編 魯迅と楊梅焼
 魯迅が日本に留学して仙台で医学を学んだ時、藤野厳九郎という解剖学の教授に親身の指導を受けたことは良く知られている。
 その恩師を回想した随筆「藤野先生」は『朝花ちょうか夕拾せきちゅう』という本に入っているが、同書の「小引」の中で魯迅は郷里の食べ物について語る。
 子供のころ故郷で食べていた野菜や果物、即ち菱角ひしだとか、羅漢豆そらまめだとか、白茭*(真菰の芽)だとか、香瓜まくわだとかを、何かの折にふと思い出すことが、これまでにしばしばあった。それらは、みなきわめて新鮮でおいしかった。みなかつては私に故郷を恋しがらせる魅惑であった。しかしその後、私は久しぶりにそれらを食べることが出来たが、別段何程の事もなかった。ところが記憶の上でのみは、いまだに昔のままの意味が残っている。彼等は私を一生涯あざむきとおし、折にふれては私の念頭に浮び上って来るのかも知れない。(『朝花夕拾』松枝茂夫訳 岩波文庫 7頁)
 故郷の味を語る文学者は中国にも日本にも多いけれど、これは何とせつない文章だろう。
 語り手は幼年時代の美しいものが幻だと正体をきわめながら、その幻と交わりを断つことができない。たったこれだけの一節に、「過去」への深い洞察と言うにいわれぬ愛着が語られている。わたしなどは自分が以前翻訳したチャールズ・ラムの随筆をちょっと思い出す。

 その魯迅の故郷は浙江省紹興、言わずと知れた紹興酒の名産地だ。
吶喊とっかん』に収められた短篇「孔乙己こういっき」は、けだし飲酒文学の古典の一つであるから、お読みの方も多いだろう。
 この話は、「孔乙己」という仇名あだなの落ちぶれ果てた知識人が、人の笑い物になりながら酒場へ酒を飲みに来る様子を描く。貧乏な孔乙己は大家たいけに泥棒に入って百叩きにされ、腿の骨が折れてしまう。それでも、ある日四つん這いになって酒を飲みに来たのを最後に姿を消してしまった。たぶん死んだのだろうと語り手は言う。
 話の舞台になっている「咸享酒店」は、御存知の通り、紹興を代表する酒場・レストランだが、ここの副総経理を務めた茅天堯氏という人が、『魯迅筆下的紹興菜』(寧波出版社2014)という本を書いている。魯迅の文章に登場する郷里の食べ物を列挙して、写真入りで解説した本だ。
 買って久しく積んだままにしておいたこの本をパラパラとめくっていたら、「楊梅焼」という項目が立ててあった。魯迅の日記の中に、作家の郁達夫いくたっぷ(『日記十七』)や弟・周建人の奥さんがこの酒を持って来てくれた(『日記二十一』『日記二十三』)という記述があるからだ。
 楊梅焼は焼酒楊梅、また簡単に楊梅酒ともいう。
 浙江省、とくに紹興に近い簫山しょうざん一帯は古来楊梅=ヤマモモの名産地だ。日本で梅酒をつくるように、彼地では紹興糟焼に楊梅を漬けて楊梅焼をつくる。紹興糟焼というのは紹興酒の酒糟を原料にした一種の粕取かすとりである。
『魯迅筆下的紹菜』によると、紹興のあたりでも夏の蒸し暑い頃にはこの粕取(焼酒)を飲む習慣があった。江戸時代の日本で夏場は焼酎や泡盛が好まれたのと一緒だろう。
 楊梅の時季、酒飲みたちはこの果物をつまみにして焼酒を飲んだが、面倒くさいと思って楊梅を酒に入れてみたら、旨い酒ができたのが楊梅焼の始まりだそうだ。

 この酒はわたしも一度飲んで、美味しいと思った。
 あれは今から五年前の二月だったが、杭州を訪れて姪っ子や友人たちと雷峰塔を見物したあと、西湖の西の茅家阜という場所にある農家菜(農村料理)の店に入った。
 庭の樹の下のテーブルを囲んで味わった料理は、魯迅の作品にも出て来る醬鴨ジャンヤー莴笋ウォスン萵苣ちしゃとう)、胡瓜、たけのこ、空豆と雪菜、豚肉と干笋、干豆腐と韮等々。酒はビールを取り、メニューにあった「楊梅酒」も注文してみた。
 それは琥珀こはく色の酒で、コップに並々とつがれて出て来た。ベースの焼酒が強いから、アルコール度数は五十度くらいある。甘酸っぱいヤマモモの味がする。
 この酒は梅酒と同様、普通氷砂糖を入れてつくるという。そうすると甘さはつくる人次第だろうが、この店のは甘すぎなくて、結構イケる。二月の野天は少し寒かったが、身体がホカホカ温まった。
 ヤマモモがどっさり手に入ったら、これはつくってみる価値がある。ホワイトリカーや日本酒の粕取でも、きっと旨いものができるだろう。

*茭白の誤りか。



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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)