南條 竹則
第40回前編 会席膳
 病魔に冒され、寝たきりとなった最晩年の正岡子規は、時に絶叫するほどの苦痛に見舞われながら、『墨汁一滴』『病牀六尺』といった本にまとめられる随筆を新聞に連載した。それと並行して、発表するつもりなしに日々書き留めた手控えが『仰臥漫録』である。
『仰臥漫録』は一種の句日記で、内容は俳句と短歌、日々の飲食記録、身辺雑記から随想にわたるが、中核をなしているのは克明に記された飲食の内容だ。
 一つ二つ例を挙げてみよう──
 九月五日 雨 夕方遠雷
  朝 粥三椀 佃煮 瓜の漬物
  昼 めじのさしみ 粥四椀 焼茄子 梨二つ
  間食 梨一つ 紅茶一杯 菓子パン数個
  夕 鶏肉 卵二つ 粥三椀余 煮茄子
    若和布わかめ二杯酢かけ(『仰臥漫録』岩波文庫 16頁)
 九月九日 晴
  便通及繃帯ほうたい
  朝 栗小豆飯三碗(新暦重陽) 佃煮
  間食 紅茶一杯半(牛乳来らず) 菓子パン三個
  便通あり
  午 栗飯の粥四碗 まぐろのさしみ 葱の味噌和 白瓜の漬物
  梨一つまた一つ 氷水一杯
  夕 小豆粥三碗 鰌鍋どじょうなべ 昼のさしみの残り 和布わかめ 煮栗(同27頁)
 子規はもともと大食らいだったが、病の床についてもそれは変わらなかった。健康でない人がたくさん食べるのだから、食事のあとはしばしば大変な苦しみを味わう。それでも、彼は味覚という快楽をこの世から最後のひとかけらまでぎとろうとする。我々読者は病と食との壮絶な闘いを見せられる。その意味で、これは古今にまれな飲食文学といって良い。
 子規はほとんど毎日刺身(鰹、鮪、カジキなど)を食べ、大好きな果物も欠かさない。その他始終食べているものに菓子パン、塩煎餅、ココア(入り牛乳)などがあり、それに次いで頻繁に食膳に上るものには、鰌鍋、きす魚田ぎょでん、鰻、小田巻などが挙げられる。
 また、友人知人が栗だの、松蕈まつたけだの、すしだの飴だのを持参したり送って来たりする。
 かなり贅沢な食生活だが、それでも食いしん坊の心は満たされない。
 明治三十四年十月二十五日の記に曰く──
 余も最早飯が食へる間の長からざるを思ひ今の内にうまい物でも食ひたいといふ野心しきりに起りしかど突飛な御馳走(例、料理屋の料理を取りよせて食ふが如き)は内の者にも命じかぬる次第故月々の小使銭にわかにほしくなり種々かんがえを凝らししも書物を売るよりほかに道なくさりとて売るほどの書物もなし 洋紙本やら端本やら売つて見たところで書生の頃べたべたとした獺祭書屋だっさいしょおく蔵書印を誰かに見らるるも恥かきなり(同126-7頁)
 結局、彼は高浜虚子から二十円借りた。
 それを軍資金にして、二日後の十月二十七日、昼飯に「岡野」という料理屋から会席膳を取り寄せる。一日早い誕生日の祝いである。
 献立は次の通り。
○さしみ まぐろとさより 胡瓜 黄菊 山葵
○椀盛 莢豌豆さやえんどう 鳥肉 小鯛の焼いたの 松蕈
○口取 栗のきんとん 蒲鉾 車鰕くるまえび 家鴨 煮葡萄
○煮込 あなご 午蒡ごぼう(ママ) 八つがしら 莢豌豆
○焼肴 鯛 昆布 煮杏にあんず はじかみ(同131頁)
 これを母と妹・りつと三人で食べたのである。
 料理屋の料理ほど千篇一律でうまくない者はないと世上の人はいふ。されど病牀びょうしょうにありてさしみばかり食ふて居る余にはその料理が珍らしくもありうまくもある。平生へいぜい台所の隅でこうの物ばかり食ふて居る母や妹には更に珍らしくもあり更にうまくもあるのだ。(同132頁)
 しかし、せっかく奮発して御馳走を誂えたのに、この日の体調は良くなかった。子規は前年河東へきごとう、高浜虚子ら四人と祝った誕生日を回想するが──
 それに比べると今年の誕生日はそれほどの心配もなかつたが余り愉快でもなかつた。体は去年より衰弱して寐返ねがえりが十分に出来ぬ。それに今日は馬鹿に寒くて午飯ひるめし頃には余はまだ何の食慾もなかつた。それに昨夜善く眠られぬので今朝はかしかつた。それでも食へるだけ食ふて見たが後はただ不愉快なばかりでかつ夕刻には左の腸骨のほとりが強く痛んで何とも仕様がないのでただ叫んでばかり居たほどの悪日であつた。(同133頁)
 それでも、翌日は目出度く食欲が回復する。
 この日の午飯ひるめしは昨日の御馳走の残りを肴も鰕も蒲鉾も昆布も皆一つに煮て食ふ これは昨日よりもかへつてうまし お祭の翌日は昔からさいのうまき日なり(同134頁)
 チャプスイ=チャロク鍋 の効用はかくの如し。

『酒と酒場の博物誌』(春陽堂書店)南條竹則・著
『銀座百点』(タウン誌)の人気連載「酒の博物誌」を書籍化!
酒の中に真理あり⁈ 古今東西親しまれてきたさまざまなお酒を飲みつくす著者による至高のエッセイ。
お酒を飲むも飲まざるも、読むとおなかがすく、何かじっくり飲みたくなる一書です!

この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)