南條 竹則
第38回後編 幸田露伴のマンナ前回御紹介した幸田露伴の「飲抜無尽、その他」に、こんなくだりがある。
私が嘗つて書いたものに「珍饌会」といふ一文があるが、それもやはりこの類のもので、多少当時の空気があらはれてゐる筈だ。心ある人は吾輩の一文に当つて見るがよろしい。(『露伴全集』第三十巻 313-314頁)
「珍饌会」は戯曲、あるいは戯曲形式の小説だ。村井弦斎の小説「食道楽」に触発された作品で、そのことは作中の次の台詞を見ればわかる。ここにいう「食心坊」がすなわち「食道楽」だ。
それ此頃このごろ 評判の食心坊くいしんぼう という小説があろう。彼書あれ を目前めさき の見えない椋鳥紳士が乃公わし のところへ歳暮に呉れたのだ。其書それ を閑暇ひま だから読んで見たところから思いついたのだが、彼書あれ に書いてあるのはマア真面目な方でおかしく無い。彼様ああ でも無い斯様こう でも無いって云うような事を論じて居る我が党とう にゃあ白湯さゆ を吞んだも同おんな じ事だ、そこで一つ正月の娯楽なぐさみ に我が党の五六人でもって、彼あ の書ほん なぞにゃあ到底とても 無い奇々妙々の珍料理の持寄り会を仕て、遊ぼうと云う謀反だが是これ あ何様どう だ。(『珍饌会 露伴の食』講談社文芸文庫 123頁)
この台詞を語っているのは、鍾斎 猪美庵
辺見 洋行帰りの若手画家。フランス通。
無敵子 鍾斎に「蝦夷一点張」と冷笑される意地張り仲間。
天愚子 画家。「我々美術仲間」云々の言あり。
我満堂 「豪条
かれらが醸し出す愉快で滑稽で浮世離れした雰囲気は、たしかに露伴が「当時の空気」と呼ぶところのものを思わせる。
さて、この面々が用意した珍料理はハイカラなエスカルゴから日本の珍味、漢籍に出て来る怪味まで多種多彩だが、それについては他の場所で何度か書いたから、省略する。ここではただ、「マンナ」のことを言っておきたい。
これは辺見が用意する飲み物だ。呼び名はもちろん聖書のマンナ(マナ)から来ている。
辺「まだ一種ひといろ 我輩の出品の、酒類では無い飲料のみもの を差し上げます。」
天「何でございます、其の水の入はい って居ります罎びん の中に見えて居りますのは。頓とん とハララゴの粒々が解ほご れたような、鰊鯑かずのこ の古びたような厭な色合いろあい のものは。」
無「植物か動物か麹のようなものか、正体の知れない不気味なものですな。」
辺「これは、」
鍾「皆さん此品これ を御存じないの、ああ御若いナ、辺見先生、それはマンナでございましょうナ。」
辺「如何にも其品それ です。これに黒砂糖を点おと すと小ちいさ な気泡が立って、水は宛然ちょうど ラムネに似たような飲料のみもの になります。ただ此これ は水を飲むので此品これ を飲まないのでして、此品は水へさえ入れて置けば段々に繁殖して、尽きる時の無いのが一つの不思議です。」
鍾「神様が以色列イスレエル 人じん に賚たま わったものだけの事はありますナ。小梅こうめ に居た瑞典スエーデン 人じん から段々伝わったそうで、露伴という人のところで飲んだ事がありました。サア頂戴します。これは妙です。」(前掲書164-165頁)
年輩の方々は、これをお読みになって何か連想するものがおありではなかろうか?天「何でございます、其の水の入
無「植物か動物か麹のようなものか、正体の知れない不気味なものですな。」
辺「これは、」
鍾「皆さん此品
辺「如何にも其品
鍾「神様が以色列
そう、わたしが言いたいのは「紅茶キノコ」のことだ。
若い読者諸氏のために申し上げると、あれはわたしが中学生の時だから、一九七○年代、紅茶キノコという物が日本で大流行した。
わたしも級友K君の家へ遊びに行った時、お母さんが愛飲している紅茶キノコを見せてもらった。それは暗い棚に置いてあった。梅酒をこしらえるような大きな瓶に薄茶色の液体が入っていて、それに巨大なムクムクしたものが浸かっている。キノコというより、妖怪か宇宙生物のようだと思った。
紅茶キノコは一種の菌を用いる発酵飲料で、「コンブチャ」といって現在も飲まれている。露伴のマンナはそれと同じかどうかわからないが、文面からして実際にあった物のことを書いているのだろう。「小梅
「珍饌会」の辺見画伯が、マンナを貰って来いと召使いに言いつける場面がある。
「権田、権田。」
「ハイ、何御用で。」
「汝きさま 此の手紙と小ちいさ な清潔の瓶びん とを持ってナ、築地の彼あ の尼さんのところへ行って、」
「あの西洋人の尼さんですか。」
「左様そう さ、あの人のところへ行ってマンナというものを貰って来てくれ。」
「へ、マンナというのでございますか。」
「左様そう 。」
「蚯蚓めめず の類たぐい で?。」
「何を云うんだ、そんなものじゃ無い、天から賜わった不思議のものなんだ。」(同135-136頁)
築地の西洋人の尼さんとは、明石町にある教会の関係者だろうか? マンナという呼び名も、あるいはそうした人々がつけたのかもしれない。「ハイ、何御用で。」
「汝
「あの西洋人の尼さんですか。」
「左様
「へ、マンナというのでございますか。」
「左様
「蚯蚓
「何を云うんだ、そんなものじゃ無い、天から賜わった不思議のものなんだ。」(同135-136頁)
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┃この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。
絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。
絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)