南條 竹則
第38回前編 チャロク鍋
 幸田露伴が若い頃につきあった人々のうちで、饗庭篁村あえばこうそんは屈指の奇人に数えられるだろうが、その篁村も三舎さんしゃを避ける人物がいた。
 当時饗庭篁村などはあんまり誰にも退ひけをとらない折紙付の変物だつたが、流石にブラ八には恐れをなしてゐた。旅行などにも、ブラ八の同行だけはどうしてもご免だといつて承知しなかつた。(「朗月亭羅文」『露伴全集』第三十巻 岩波書店 311頁)
「ブラ八」というのは、もちろんあだ名である。本名は瀧澤慎八郎。仮名垣魯文の門下で、綾垣羅文という筆名をもらった。鎮彦、愛水、噺洲崎成などの別号があり、また好んで「朗月亭主人」ととなえた。露伴より少し年上の友人とも弟子ともつかぬ男で、一時露伴の家に居候していた。
「ブラ八」のいわれはこうだ──
 或る晩、散散日本酒を呷つた揚句、又大きなコップでブランデーをつたことがあつたが、私は七杯で降参したのを、羅文は八杯平げてけろつとしてゐた。その事があつてから彼には「ブラ八」といふ綽名が出来た。(同310頁)
 この朗月亭は三十五歳で世を去り、大した文章は残さなかった。露伴によると、芸者にとられたび証文が一代の傑作だったというが──
 とにかく、このブラ八の羅文は、どの点からするも畸人の名に恥ぢぬほどの人物であつた。典型的畸人といふもよろしからう。こんな畸人が実際生きてゐてもさして不釣合にも感じられなかつたその頃の文学者達の社会も、恐しく他とは異つた空気が流れてゐたものだ。これを今の文壇と思ひ合せるときうたた隔世の観なきを得ない。(同312頁)
 これは「遅日雑話」に収められた「朗月亭羅文」という文章の一節だが、同じ「遅日雑話」の一篇「飲抜無尽、その他」には、こうある。
 当時こんな空気の中にゐた連中は、必ずしも文学者のみには限らなかつた。画家の久保田米僊、富岡永洗、また先年亡くなつた美術学校の校長であつた岡倉覚三などもその一人だつた。(「飲抜無尽、その他」前掲書314頁)
 岡倉覚三は岡倉天心である。この人は──
 馬の御前といはれた位で、小紋縮緬のぶつさき羽織、腰に馬乗提灯を打ちこんで、馬上寛かに白昼の町内を乗廻した。訪問もそれ、猟にもそれだ。よく馬上に半弓を携へて三河島の田圃で鳥を射てゐたことがあつた。私などが鉄砲を担ぎ廻つてゐると、御前早速見付けて、「鉄砲で鳥を獲るなんて野暮な真似をするな」といふ調子で屢々叱言を喰つたものだ。(同314頁)
 露伴曰く──
 こんな連中の集りが私たちの先輩だつたのだから、私たち新米は初めのほどどれ位悩まされたか知れなかつた。第一に、洒落のやうな符牒のやうなその合言葉がわからなかつた。その上、一方は多少なりとも江戸の空気を知ってゐる人達だが此方は明治の初年さへろくろく知つてゐないので、年輩から言つてもまるで取組みにならなかつた。後にはさうでもなかつたが、当座は私なども小僧で野暮で、口出し一つ出来ずにゐた。だから後では天下に毒舌を振つた斎藤緑雨ほどの者でも、この連中からは田舎者扱ひ野暮扱ひにされたもので、まるで相手にはされなかつたものだつた。(同315頁)
 例の「野道」に登場する好事家たちはこのお仲間だったのである。
 さて、こういう先輩の一人に日本画家の川崎千虎(1837-1902)がいた。岡倉天心に招かれて東京美術学校の教授をした人物である。通称源六、別号「茶六庵」。この人が「チャロク鍋」というものを発明した。
 どんなものかというと──
 調理法は至極簡単、杯盤狼藉のあと掃除で、残つた代物を何でも彼でも鍋へ投げこむ、それでいいのだ。「チャロナでもう一杯行かう」などと云つたもので、二次会の下物さかなはこれに限つたものであつた。チャロナは蓋し茶六鍋の略であつた。(同314頁)
 何だか闇鍋を思わせる。いや、日本式チャプスイというべきだろう。
 アメリカで中華料理の代名詞のようになった“チャプスイ”の起源については諸説あるが、清末の大官鴻章こうしょうが訪米の際、御馳走の残りをごった煮にして食べたというのが、もっとも巷に流布している説である。
 わたしなども宴会の翌朝、持ち帰った残り物でやってみたことがある。これは投げ込む物の選択に多少の判断が必要で、全然出鱈目でたらめに放り込んだのではよろしくない。しかし、露伴のお仲間はきっと上手に作ったのだろう。


『酒と酒場の博物誌』(春陽堂書店)南條竹則・著
『銀座百点』(タウン誌)の人気連載「酒の博物誌」を書籍化!
酒の中に真理あり⁈ 古今東西親しまれてきたさまざまなお酒を飲みつくす著者による至高のエッセイ。
お酒を飲むも飲まざるも、読むとおなかがすく、何かじっくり飲みたくなる一書です!

この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)