
雁に鷭と鳥類の話が続いたついでに、ちょっと鴉の話もしておきたい。
御存知中国の文人・魯迅に『故事新編』という作品集がある。
八つの短編小説を集めた本で、それらの小説は中国の神話や伝説、古人の逸話などを題材とした自由自在な空想譚だ。誰でも知っている話の大胆な脚色という点では、太宰治の『御伽草子』などを思わせないでもない。
その一つ、「奔月(竹内好訳では「月にとび去る話」)という話は羿と嫦娥の伝説を題材にしている。
伝説はもちろん伝える資料によって多少の異同があるが、魯迅も参照したであろう『淮南子』(「本経訓」)によると、皇帝尭の時、空に十の太陽が並び出て、穀物を焼き、草木は枯れ、人々は食べ物がなくなって困った。そこで尭は弓の名人・羿に命じ、十個の太陽を射落とさせた。
同じ『淮南子』のべつの箇所(「覧冥訓」)によると、嫦娥は羿の妻だったが、夫が西王母からもらった不老不死の仙薬を飲んで月へ逃げたという。
魯迅の話は、この嫦娥出奔のいきさつを語っている。
羿は毎日狩りをして暮らしているが、家の近辺の鳥獣を狩り尽くしてしまい、もう鴉くらいしか射るものが残っていない。
その日も、獲物は鴉三羽に雀一羽と寥々たるもの。帰って来た夫の様子を窓から見ていた嫦娥は、またかと腹を立てる。
しばらくして出てきた夕食は、こんなものだった──
炸醬麺を食ってみて羿は、自分でもなるほどまずいと思った。そっと嫦娥のほうを見ると、かの女は炸醬には眼もくれないで、ウドンにスープをかけて半杯ほど食っただけで箸をおいてしまった。(同28頁)
この物語を読んだ人は誰でも、「鴉の炸醬麺」という文字を見て呆れるだろう。
御存知の通り、炸醬麺は、細かく切った肉を甜麺醤などで炒めた「炸醬」と胡瓜などの野菜類を麺にのせ、混ぜて食べる。肉は普通豚肉を用いるが、牛肉、羊肉、また家鴨などを使っても美味しく作れるだろう。
しかし、鴉となると問題である。
わたしの知り合いに、かつて悪童たりし昔、鴉を食べたことのある人が二人もいるが、べつに何の変哲もない鳥の味だったと二人とも言っている。かれらの言葉は信頼するに足る理由があるけれども、一般には鴉の肉は臭いということになっていて、これは中国でも同じだ。
有名な李時珍の『本草網目』を紐解くと、「慈烏」と「烏鴉」と二種類の鴉が載っている。
「慈烏」の方は想像上の鳥と言っても良い。年老いた親鳥に餌を与えて恩返しをする、そういう親孝行の鴉がいると昔の人は考え、これを「慈烏」と名づけたのだ。普通の鴉は「烏鴉」であるが、同書に引用された前人の書物によると、烏鴉の肉は「渋臭不可食(渋くて臭くて食えない)」。物好きかよほど飢えに迫られた人しか食べなかったはずで、魯迅の物語も成り立つわけだ。
しかし、たとえ材料が鴉でなくとも、丼によそった麺と炸醬だけの晩御飯とはいかにも芸のない献立である。嫦娥もあまり良妻とは言えないだろう。
作者魯迅は紹興の人だ。米の飯を食べて育った南方人だ。この話には北京名物炸醬麺に対する揶揄いのようなものが感じられなくもない。
余談だが、食用に向かないとされる烏鴉も薬には用いられ、『本草網目』には色々な用法と効能が記してある。
それで思い出すのは、昔ベトナムのサイゴン(ホーチミン)で山羊料理の店に入った時のことだ。その店の奥の方に三段の棚があり、十ではきかない、二十種類くらい薬酒の大壜が並んでいた。その一つに鴉そっくりの鳥が丸ごと入っていた。
友人にそのことを話題にするたびに、
「アレはカラスだったのかなあ」
と決まり文句のように言っていたが、どうやらその可能性は高そうである。

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文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。
絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)