南條 竹則
第34回後編 黍の黄酒
 せんだって、行きつけのネパール料理店でネパールのラム酒「ククリ」を飲んでいた時、店のお兄さんに聞いてみた。
「ラムのほかに、ネパールにはどんな酒があるの?」
 すると、「きびのお酒」という答が返って来た。それはネパール語で「コド・ラクシー」という。コドは黍、ラクシーは蒸溜酒の意味である。
 かめを二つ瓢簞ひょうたんのように重ねた格好の道具を使ってつくるそうだが、お兄さんはそのやり方を詳しく説明してくれた。
 上下に重ねた甕の下の方には、黍を発酵させたものが入っている。上の甕には天辺に茶碗のような器がかぶさっていて、冷水を入れてある。その下にまた器が置いてある。下の甕を熱すると、酒の蒸気が天井にあたり、冷やされてポタポタと滴る。それが下の器に溜まって、ラクシーの出来上がりだ。
 そのうち天辺の冷水がなくなるので新しい冷水を入れる。三回目に冷水を入れた頃が蒸溜のクライマックスで、度数四十度くらいの酒ができるそうだが、その後、酒は次第に薄くなり、せいぜい七回が限度だという。
 こうして出来た蒸溜酒を、酒飲みたちはあおる。
「黍の醸造酒はつくらないの?」
 と聞くと、
「ヒマラヤの人は飲むけど、僕らは飲まない」とお兄さんは答えた。
 米処こめどころの日本にいると、雑穀の酒にとんと縁がない。
 昔のことは知らないが、現在日本で飲める穀類の醸造酒は、どぶろくも含めて米の酒ばかりである。けれども、ちょっと国外へ出れば、あわや黍でも美味しい酒ができることがわかる。
 たとえば、台湾へ行かれた読者の中には、「小米酒」という粟の酒(中国語で小米は粟だ)を試してみた方もおありだろう。わたしが「甫里小吃」という店で飲んだものはかなり甘口だったが、悪くなかった。
 大陸の山東省に目を向けると、青島の銘酒に「即墨老酒」という黍の酒がある。墨のように黒く、やや甘口で、これは中々美味い。
 山東省は高粱こうりゃんでつくる白酒だけでなく、古来黍酒の産地だった。
 ノーベル賞作家の莫言氏は山東省の青島に近い高密県の出身だ。
 氏の作品の多くは故郷高密県を舞台としている。その一つに『白檀の刑』という時代小説がある。
 これは清朝末期、ドイツが山東省に勢力を張りつつあった頃の物語だ。
 主人公の孫丙はドイツ人の暴虐に憤り、鉄道敷設現場を襲って人質を取ったりするが、結局官憲に捕らえられる。
 清朝政府は北京から趙甲という西太后お気に入りの処刑人をつかわし、白檀の刑という秘技でもって孫丙を殺す。これは残虐な極刑だが、残虐さがあまりにりすぎていて、ファンタジーの域に達している。
 ところで、孫丙には眉娘びじょうという娘があった。
 彼女は町に小さな飲み屋を開き、
 県城の人々にかんした黄酒ホワンヂョウと熱々の犬肉を供した。亭主がのろまで、女房は色っぽく、美人がお相手とくれば、商売は繁盛する。町の若い不良どもは、多少ともおこぼれにありつこうとしたが、どうやらまだ誰も思いを遂げてはいないらしい。孫眉娘にはあだ名が三つあった──大足仙女、半端美人、犬肉小町である。(『白檀の刑』上 吉田富夫訳 中公文庫 235頁)
 この孫眉娘はかねてから高密県知事・銭丁と密通を重ね、いつも美味しい黄酒と犬肉を手土産に役所へ通って来る。それで父親の助命を知事に頼むのだが、断られる。
 わたしは最初この小説を読んでいて不思議に思った。
 中国語の「黄酒」は、黄色や茶色の醸造酒全般をいう。御存知の紹興酒は糯米もちごめを原料とする黄酒の一種だ。北京の貴人や金持ちが南方から紹興酒などを取り寄せて飲んでいたことは周知の通りであるが、山東省の田舎町で一酒舗が供するほど、南方の米の酒は流通していたのだろうか?
 その謎は「第十二章」に至って氷解した。
 次に引くのは、銭丁が公用で高密の近くの村へ行くくだりである。
 陽が西に沈む頃、一行は平度へいど県の県境に入り、前丘ぜんきゅうという小さな村で裕福な家を見つけて馬どもに餌をやり、食事をした。主人は白髪の老秀才で、知事を鄭重にもてなし、煙草やお茶を勧めたうえに、ご馳走まで出してくれた──野兎と赤蕪あかかぶの煮こみや白菜と豆腐の煮物に、キビで造った黄酒ホワンヂョウ。(『白檀の刑』下 中公文庫34頁)
 そう、犬肉小町の黄酒もこれ、黍酒なのだ。
 燗をつけるチロリからプンと立ちのぼる黍の香りを想像して、わたしは急に一杯やりたくなった。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)