【第97回】


旧中央本線廃線跡と猿橋見物
 2023年と年も改まって、とくに記すことなし。静かな年の暮れと年明けであった。
 2022年12月29日。年も押し詰まった晴天の日を選んで、朝から動き出す。「青春18きっぷ」3回目を使って、中央本線「鳥沢」から「猿橋」まで歩く。『廃線跡ウォーキング 東日本』(JTBパブリッシング)を風呂に浸かりながらパラパラ見ていて、心惹かれたページがこれだった。「中央本線旧線(鳥沢~猿橋)」のコースは山梨県大月市が舞台となる。「甲州街道の宿場町から線路跡に沿って日本三奇橋の猿橋へ」がキャッチの見出し。
 朝早いJR「国立」から「高尾」乗り換えで、「鳥沢」に着いたのが9時58分。1時間強で本来なら運賃は860円。細かいことを言えば、1日2410円以上乗って元の取れる「青春18」ではあるが、他日に取り戻せばそれでいい。「よきにはからえ」と、少しだけ大名気分を味わう。
 鳥沢駅は跨線橋で2面のホームをつなぐ地上駅で無人改札。がらんとした駅前には本当に何もない。下車したのも私だけのようだ。『廃線跡ウォーキング』(以後『廃線跡』と表記)に掲載された地図の通り、西へ向かって甲州街道(国道20号線)を歩き出す。「セブンイレブン」が沿道にあって、この先、飲食店や自動販売機もなさそうで、ここでペットボトルのお茶と弁当を確保。ついでに『廃線跡』の地図ページをコピーしておく。いちいち本をバッグから取り出すのは面倒で、ここに書き込みもできるし、折り畳めばポケットに入る。そう書くと、「旅の達人」っぽくなりますねえ。
「セブンイレブン」の向かいにある郵便局脇の路地を線路に向かって少し入る。正面に小高い盛り上がりが見え、てっぺんには小さな神社がまつられている。階段を上ってここで道中の無事を祈願する。境内は遊具のある公園になっていて、あたりが見渡せる。ここを降りて線路わきの静かな道を歩こう。住宅街の裏手の道で驚くほど静かだ。
 大月総合体育館入口で甲州街道に合流。人1人がようやく歩ける狭い歩道を進む。脇を大型トラックや乗用車が轟音をたてて通り過ぎていく。100%法定速度超過と思われる。よろけて歩道から足を踏み外せば、わが人生は終わる。道の北側が山手になっていて、ここに廃線跡がある。『廃線跡』によれば「かつて、中央本線鳥沢~猿橋間の列車は、大きく蛇行する桂川の左岸を、国道20号の甲州街道に沿うように山間のトンネルと橋梁を結んで走っていた」という。この時は単線。私が乗ってきた中央本線は複線化された新線であった。知らなかったなあ。
 駅から40分も歩いた右手にフェンスで囲まれた公園があり、上ってみると草に埋もれた築堤があった。これが旧中央本線の廃線跡とはっきり確かめられる。その先、藪に閉ざされたトンネルが見えた。これが「第一富浜トンネル」だ。こんな狭い穴を列車が走り抜けていたのか。いや、時代がついて、狭く見えるだけかもしれないが。
 なおも30分ほど歩くと、甲州街道が桂川と交差し、桂川に向かって口を開くレンガ積みの橋梁があった。脇に回ってみると、この橋梁の上は水路となり水が走っているのがフェンス越しに見えた。いいものを見た気がする……と感慨にふけっていると、足元に触れるものがある。何かの毛皮のようだ。次の瞬間「ゲゲゲ!」と声を出してしまった。タヌキの死骸であった。おそらく甲州街道を横断していて車にひかれ、よろよろとこの脇道へ入り込み力尽きたのではないか。「くわばら、くわばら」と手を合わせる。
 逃げるように甲州街道に戻り、もうしばらく歩くと道路標に「猿橋」の矢印があった。難なく道中を踏破したように書いてきたが、脇を囂々ごうごうと車が通るたびに肝を冷やす歩きは心身を消耗させた。途中、出会った人もなく、いかに酔狂な散歩であるかがわかる。だから「猿橋」にたどり着いたときはホッとした。テレビの旅番組などで、何度もお目にかかってきたが実物は初の対面。桂川を跨ぐ木の橋で、橋脚がなく、両側から幾層にも重なる木製の桔木はねぎで支える工法が珍しい。飛鳥時代には存在していたと言われ、1984年に付け替えられたとのこと。旧中央本線からは、車窓から猿橋が見えたのだ。
 ふだんは通行料金を払ってこの橋を渡れるようだが、この日は通行禁止となり縄が張られていた。猿橋の向こう、先ほど見たレンガ積みの水路橋脚が見え、これが「八ツ沢発電所第1号水路橋」の続きであることが分かる。訪れた幾組かの観光客(みな車でのアクセスだ)がいて、弁当を食べるタイミングを逸してしまった。猿橋から猿橋駅まではなおも1キロ以上を歩かねばならず、12時前に駅に着いた時は情けない話だが、ホームのベンチにへたりこんでしまった。元気が残っていれば、この先「山梨」駅まで足を延ばそうという計画もあったが、白旗を掲げ、早くも上りに乗って帰ることにする。弁当はこのベンチで食べた。
 吹きさらしの猿橋駅ホームから見上げると空は青く、風は冷たい。2時間ほどの散歩であったが、見るべきものは見て、私は大満足であった。


真摯に笑いと向き合う芸人魂
 2022年大晦日、もう長らく「NHK紅白歌合戦」を見ない私は、ほかの日と変わらず、ぼんやりテレビをザッピングしながら流していた。そのうちの一つ、BSよしもと「ワレワレハワラワレタイ」に留まって見入るうち、むくと起き上がり、あわてて録画を始めた。大晦日から元旦にかけて24時間連続放送だったようだが、私が視聴し始めたのはその半分くらいから。
 これは2012年に吉本興業が創業100周年を迎えたことを記念したドキュメンタリーで、木村祐一が聞き手となり、吉本興業所属の100組を超えるタレント、芸人たちにインタビューするというもの。若手から50年以上所属するベテランまで吉本芸人総図鑑の感あり。さすがに見ごたえがあった。
 日頃はおちゃらけて、なんとか笑いを取ろうとする芸人たちが、自分たちの芸歴やいま置かれているポジション、芸に対する考え方を真摯に答える。収録を終えた芸人の多くが「こんなんは初めてですわ。ええ勉強になりました」と真面目に向き合ったことを告げていた。木村祐一(1963年生まれ)はダウンタウンの弟分的ポジションから、次第に顔が売れるようになった。NHK「チコちゃんに叱られる!」のチコちゃんの声(音声を変えている)担当でも有名になった。様々な職を経験した後、吉本で漫才を始めたが解散しピン芸人となった。並行して裏方(進行、構成)もしていたことで、裏表両面から吉本芸人たちを見てきた強みがこのインタビューでよく生きた。代表的な出演者を挙げると、笑福亭仁鶴、明石家さんま、ダウンタウン、トミーズ、ガレッジセール、藤井隆、南海キャンディーズ、博多華丸・大吉などなど。吉本所属芸人の人気の高さと厚みを感じる。
 質問は「いまの状態に満足か」「これまで悔しい思いをしたこと」「うれしかったこと(先輩、同輩からの言葉)」「生まれ変わっても同じ職業に就くか(漫才コンビの場合は同じ相方を選ぶか)」などが基本線で、話を聞く間、木村はいっさいメモや資料など見ない。最初、芸人との間に緊張感が走り、話が進むにつれ核心に触れ、芸人としての心構えなど貴重な意見が開陳されていく。
 みな共通するのは苦しい時代、理不尽な対応をされてくじけかけた経験を持つこと。それを救ったのが芸人仲間であった。南海キャンディーズのしずちゃんは、ボクシングでオリンピック出場を目指すと宣言し、周囲から批判を受けた。そんな時、山崎邦正がある時、心配して近づいてきて「一番しんどいことを選んだんやな」と声をかけた。しずちゃんは孤立無援の中、その言葉に励まされた。
 トミーズの雅は「NSC」(吉本の養成所)の第1期生で、ダウンタウン、ハイヒールが同期生だった。学校や地域で一番面白い奴が吉本に来る。それでも雅は、素人同然のダウンタウンの漫才に打ちのめされる。これはとてもかなわない、と自分たちの方向性を変えたという。ほかの芸人たちもそうだが、タイトル通り「ワレワレハワラワレタイ」という一心で仕事をしている。「楽しくて仕方がない。何もつらくない。漫才を愛している者だけがこの世界に残る」と雅。相方の健(幼稚園時代からの親友)はそれに同感し、「しんどい時でも漫才をしたら元気になる。弱い風邪ぐらいやったら治る」と言い放った。
 渡辺直美は台湾人の母を持つハーフ。台湾や海外で仕事をしたいと考えていたが会社の人たちは聞く耳を持たない。木村は「そんなん、どんどん会社に言うていったほうがいい」と助言した。これらがすべておよそ10年前の姿。そこからまた10年が過ぎた。渡辺直美はいま、その海外で仕事の場を広げている。
 笑芸が歌手や俳優より一段低く見られることに憤る者にも「逆にそれで気楽な面もあるんとちゃう?」とさらりと言った木村祐一。とてもここに書ききれない。人生における金言が満載の番組であった。

(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。