岡崎 武志

【第7回】質屋小説「蔵の中」

 京都での学生時代は手ひどい貧乏生活を強いられたが、それでも質屋を利用したことはない。質屋通いを自慢する経験は免れた。京都にはかつて河原町今出川上るに「善書堂」という本を質草に取る古書店があって、ずいぶん利用された(店主に直接取材した)ようだが、そっちも私は未経験。金に困った時は本を売った。一日の食事ぐらいは、なんとかそれでしのげたのである。
 質屋に関する記憶は父親とのものだ。私が小学校へ上がるぐらいの時の話になる。父親がパチンコ好きで、会社が休みの日、何度かパチンコ店へくっついていった。もちろん私はパチンコをしない。父親が盤に向かっている間、通路に落ちている玉を拾っては父親に渡していたのである。
 そんなある日、パチンコ店へ行く途中、「たけし、ちょっとここで待っとけ」と言って父親が路地裏に姿を消した。しばらくして現れた父親の手首から腕時計が消えていた。腕時計を質草に金を借りたらしい。安月給の父が高級時計を身に着けていたのとは思えないので、おそらく現在の500円とか1000円とかで入れたのではないか。
 これもいつだったか、深夜、リビングで酔っぱらってテレビを地上波、BS、CSとザッピングしていたところ、ポルノドラマに行きついた。しばらく見ていると、これがひどい話で、夫の借金のかたに妻が質草に取られて、利息代わりに男たちの手慰みになる。現代ではありうべからざる設定だが、江戸時代には、いよいよ窮したら「妻が質草」になることがあったと大石慎三郎『大江戸史話』(中公文庫)にある。「生活や年貢納入に困った農民は、まず子どもを質に入れる。もちろん、そのような農民が借金を返せるはずがないので、子供は質流れになってしまう」という。子供が質流れになると次は妻、最後は自分自身が質に入る。
 ところで、町の質屋の数は急速に減少している。借金の手段についてはいわゆる「サラ金」が普及し、モノを金に換えるのはリサイクルショップに取って代わられるようになった。質屋の出番はそのために減ったのである。
 最近の小説(そんなにたくさん目を通しているわけではない)を読んで、質屋の登場する作品は青春期の回想を除いて、ほぼ皆無ではないか。
 そこで紹介したいのが宇野浩二「蔵の中」である。話題の中心が質屋の小説。しかも、主人公が質草に入れた着物を、虫干しするという理由で蔵に入り、これも質草の布団を敷いて眠ってしまう。まるで自分が質草になったみたい。日本文学に谷崎潤一郎「春琴抄」、川端康成「片腕」、江戸川乱歩「人間椅子」、小松左京「日本沈没」と、あっと驚く奇想の小説はいろいろあれど、ユニークという点でこれは負けていない。
「蔵の中」は短編で、現在は講談社文芸文庫『思い川・枯木のある風景・蔵の中』に収録。こまめに古い文学全集の端本を探せば、宇野浩二の巻で読むことができるはず。私が今回、テキストにしたのは中央公論社「日本の文学」の『宇野浩二・葛西善蔵・嘉村かむら磯多いそた』の巻。つまり私小説の作家であると、この組み合わせでわかる。
 宇野浩二(1891~1961)は福岡生まれの大阪育ち。1910年に上京、編集者を経て作家デビューを果たす。これが大正中ごろで、1919年に「文章世界」に発表した「蔵の中」で注目を集めた。これが大ざっぱであるが略歴。「蔵の中」は広津和郎から聞いた近松秋江のエピソードからヒントを得た。原稿を持ち込んだ「文章世界」の編集者が加納作次郎で、広津と加納により元の題「る愚な男の話」から二転三転して「蔵の中」になったという。
「そして私は質屋に行こうと思い立ちました」と唐突に始まるこの作品は、語りかけの人懐っこい文体で、のちの太宰治を想起させるところがある。主人公(山路)は独身の小説家。衣裳道楽で集めた着物を、貧しいがゆえにみんな質に入れてしまう。
 お気に入りの特注の布団さえ質屋のものとなる。部屋から布団が消え貸し布団で寝る始末である。「私」は布団にもぐりこみ、腹ばいになりながら執筆する習慣があり、これは作者そのままの姿である。「蔵の中」も「鰻のように蒲団の中にもぐって、三日かかって小説を書き上げた」(山本健吉)。まあ、ここまでは特別珍しい話でもない。本作が異色なのは、このあと、預けた衣裳を虫干しするという理由で、質屋の蔵の中に入り込むことだ。
 質屋の店員たちは「いや、いちいち手入れは十分にしてあるとか、今ごろ虫干をするとかえって品物が悪くなる」など理由をつけて断ろうとするのだが、結局は望みを叶える。頭上に繩を張り、自分の預けた着物をそこに干す。それを眺めながら、一枚いちまいに込められた「女の思い出」を呼び起こすのだ。
 小説を人生の実相を映した文芸形式とするならば、あまりにばかばかしい話だが、コロコロと前に転がる軽快な文体もあって、一読忘れがたい印象を残すのだ。これは何度読んでも面白い。
 作品社の「日本の名随筆」シリーズ「別巻18」が種村季弘すえひろ編『質屋』。滝田ゆう、永井龍男、尾崎一雄、林芙美子、井伏鱒二、佐多稲子、山之口やまのくちばくほか錚々たるメンツによる「質屋」にまつわる回想を集める。宇野浩二は「質屋の小僧」「質屋の主人」を収める。当然ながら貧乏話のオンパレードになるわけで、成功した作家たちの悪戦苦闘の日々がうかがえる。

「あとがき」で編者の種村季弘は、江戸っ子と質屋の関係についてこう書く。
「仕事の出掛けにふとんを質に入れて、帰りに日賃で出せばいいい。質屋をすこし遠いところにある押入れと思えばいいのだ」
 宇野浩二「蔵の中」は、まさにその実践であった。
(写真は全て筆者撮影)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。