岡崎 武志

【第6回】『銀座百点』創刊第5号を買う


 なるべく古本屋でも雑誌は買わないようにしているのに、ついふらふらと手に取り、これを買ってしまった。『銀座百点』の1955年第5号。1955年は同誌の創刊年だ。こんなに初期のものを入手したのは初めてかもしれない。表紙は佐野繁次郎だ。
『銀座百点』は今も刊行が継続されている銀座のタウン誌。日本初のタウン誌でもある。発行の銀座百店会は、この雑誌を作るため設立された。趣旨に賛同した銀座1丁目から8丁目までに住所を持つ名店100軒から成る。「明治屋」「銀座フロリダ」「三笠会館」「日動画廊」「壹番館洋服店」「木村屋総本店」「鳩居堂きゅうきょどう」「和光」等々、さすがの名店が名を連ねている。加入した店舗以外の広告が入ることもなく、その点でも純度は高い。ここに家電メーカーや旅行会社や飲料の広告が混じると、もっと雑多な印象になるはずだ。
 この雑誌が放つ高いクオリティーや格調は、表紙や執筆者を超一級の人に依頼している点にあるだろう。まずは何といっても、創刊から15年表紙を担当した佐野繁次郎。独特の味わいを持つ抽象画と、ひと眼でそれと分かる描き文字によるタイトルと、このタウン誌が以後持続する気品のレールを敷いた。佐野のあとを引き継いだのは秋山庄太郎、風間完、脇田かず、小杉小二郎こじろう。現在はクラフトエヴィング商會だからはずれがない。
 執筆陣も豪華で、この5号で言えば、池部良、子母澤しもざわかん、福島慶子、島崎雪子、徳川夢声、藤原あき、福田豊四郎など、当時誰もが知るトップの著作家や俳優などが首を揃える。この横長の薄い雑誌の連載から、たとえば向田邦子『父の詫び状』が生まれ、和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』が単行本となり話題になった。『銀座百点』から原稿依頼が来ることは、ある種のステイタスであったはずだ。
 とくに向田邦子の起用はこの雑誌の手柄だった。1970年代に「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「だいこんの花」「冬の運動会」「阿修羅のごとく」「あ・うん」と名脚本家として名を知られていた向田に随筆の連載依頼をしたのが『銀座百点』。1975年秋に向田は乳がんの手術を受けていた。「あまり長く生きられないのではないか」という予感を抱いて連載(隔月)を引き受けた。1976年2月号から連載開始、1978年6月号まで続いた。がんの手術の後遺症で右手が効かなくなり、左手で書いたという。連載が始まった1976年から表紙は風間完が担当。向田の著作の装画を中川一政と二分する、ひいきの画家となった。
「父の詫び状」は、人々が忘れかけた、忘れようとした戦前の中流家庭の日常と親子の心の交流を細かく描き出し、多くのファンを得て文藝春秋から単行本化される。出版社の編集者が飛びつくように向田に小説を書かせ、1980年に直木賞を受賞するまで、あれよあれよの進境の発端は『銀座百点』が作った。同時に人気作家となった彼女に舞い込んだ海外取材の渡航中、飛行機事故の奇禍に遭い帰らぬ人となる。これが1981年だから、あまりの目まぐるしさに息を吞む思いだ。
 B6(新書より一回り大きい)を横長にした判型は、先行する大阪の食味雑誌『あまカラ』をまねた。これは男性なら背広のポケット、女性ならハンドバッグに収まることを想定したサイズだった。中綴じの見開きを中央で折りたためばコンパクトになり、飲食店の席や電車でつり革にぶら下がりながら読むのに適していた。家庭で簡易にコースター替わりに使われたのか、カップの底の紅茶かコーヒーの跡がついたのを古本で見たことがある。
『銀座百点』は、いちおう定価がついている(第5号は50円)が、「銀座百店会」に加入する店なら、顧客に無料で配られているはず。私などは銀座へ赴いた際、「銀座ライオン」で何度かもらった記憶がある。どれぐらい部数が刷られているかは不明だが、バックナンバーは古本屋や古本市でよく見かける。号にもよるだろうが、1冊100円から300円ぐらいではないか。一度、五反田「南部古書会館」の即売会で、50冊ほど束になったのを見つけ買ったことがある。いずれ暇を見て、通覧し研究しようと思って買ったが、ついに紐を解くことはなく、そのまま処分してしまった。
 よほどの研究心や必要(雑誌についての原稿依頼)がない限り、束になった雑誌を買うのはもうやめようとこの時、肝に銘じたのである。時々、箸休めのように、1冊とか2冊とかを買って、帰りの電車や喫茶店でパラパラと任意にページを拾い読むのが、もっとも健全な古雑誌との付き合い方のようだ。(そんなに長くは生きられないのだから)と、心の中でつぶやくのが常である。
 第5号は某所、古本屋の店頭でたった1冊、100円で売られているのを見つけ、ほかにあまり触手が動かなかったせいもあって購入。行きつけの喫茶店で腰を落ち着け、コーヒーが運ばれるまでの時間に読み始めたら、けっこう強く引き寄せられた。もっとも強く目次で関心を寄せたのが「銀座の屋根の下 ジャズの音流る」という座談会で、ここさえ読めればいいと思っていたら、ほかのページにも目が移り、結局コーヒーを飲み終わるまでに雑誌の半分くらいは目を通すことになった。充実の100円である。
 タウン誌だから当然のごとく、地元の話題になるわけだが、たとえば巻頭の「銀座の玄関番」は、有楽町駅長(大石銀作)と新橋駅首席助役(川又順)の対談。どちらも国鉄(現JR)における銀座への最寄り駅で隣同士。ちょっとライバル関係がほの見える。

 乗降客が多いのは有楽町。「有楽町は乗降客がだいたい年間をつうじて三十二万といつております。しかし収入は新橋のほうが多い」(大石)。その理由は「旅客小荷物があるから」だという。「それに新橋は、遠距離の汽車が多いので、遠距離の切符を売る」(川又)ために駅の収入に差が出る。「有楽町は安いところばかり売っている。(笑声)」(川又)。
 これは対談で初めて知ったが、切符も有楽町は「ペラペラ」の軟券であるのに対し、新橋は硬券と違いがあった。なぜそんな区別があったかは分からない。階段の耐久力についても言及あり。有楽町は石製。大量の乗降客数が使うため「石の階段が、二年目にツルツルになつてしまいますよ」と川又助役が証言する。もっとも強い(耐久性の高い)御影石を採用する予定とのこと。こういう話は現場からでないと聞けません。
 酔客の暴行についても語られている。まわりが飲み屋で囲まれた新橋がとくにひどい。「どうどうたる紳士がまつたく常軌を逸してくる」(川又)。それに対する対応は「無抵抗主義」で、「こつちもバカになつてつとめなければならん」と言うのだが、「相手になれば二つのところを三つも四つもなぐられるということになるから無抵抗主義がいちばん賢明」(大石)と最後に(笑声)で締められているが、ひどいものだ。無抵抗な駅員に対する酔客の暴行はいまだ止まず、問題視されている。
 そのほか「スリ」、「桃色」(カップルのいちゃつき)と、かなり正直に本音が語られている点が読ませる。現在の有楽町、新橋両駅の駅員にこれを読んでもらった上で、再度対談をしてもらいたい。
 こういった瀟洒しょうしゃなタウン誌を中央線で作りたいというのが私の夢である。かつて「ONIKICHI(おに吉)」という荻窪、西荻窪、吉祥寺の古本屋さんを後援者として、小冊子を作っていたことがある。3つの町の頭文字を取って「おにきち」と名付けた。編集長は私だった。第1号は2003年5月刊行。以後、3号まで出した記憶がある。各町の古本屋地図をメインに、読み物記事を角田光代、坪内祐三、三浦しをん、久住卓也、浅生ハルミン各氏が執筆。薄謝なのに、けっこう豪華だった。これをもう少し膨らませて、中野から国立までぐらいのエリアに広げて、『銀座百点』へ追い付け(追い越すのは難しい)と定期的な刊行物を出したいのだ。やり方によっては、けっこう軌道に乗るのではないか、と皮算用したりして。

(写真は全て筆者撮影)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。