岡崎 武志

第29回 吉本せいをモデルにした女一代記


 山崎豊子『花のれん』が面白く、2日かけて、ほぼ一気に読んだ。山崎は本作で1958年直木賞を受賞。前年のデビュー作『暖簾』に続く上方女の商家繁盛ものと言える。執筆当時、毎日新聞学芸部に勤務。上司に井上靖がいた。新聞社退社後、本格的に作家生活に入り、『白い巨塔』『不毛地帯』『大地の子』など、社会性を持つスケールの大きな作品を続々と発表し、映画、ドラマ、舞台などにもなった。文壇の評価などあてにせず、ひたすら人間くさい、読んで面白い作品を読者に向けて生産し続けたのである。
『花のれん』は笑いの王国・吉本の創業者である女傑、吉本せいをモデルとした女の一代記。私は作品発表の翌年に映画化された同名作を先に見た。原作にわりあい忠実な映像化で、豊田四郎監督、主演の淡島千景(多加)、夫の森繁久彌(吉三郎)、花菱アチャコ(ガマ口)、浪速なにわ千栄子ちえこ(金貸しの婆)、佐分利さぶりしん(伊藤)と原作のイメージと見事に重なる配役で、この役者たちの顔ぶれを消し去って原作を読むことは難しい。
 なお、上方ものを象徴するしっかりした女とだらしない男の組み合わせは、織田作之助『夫婦善哉』を彷彿とさせ、事実、同作の映画化は豊田四郎監督、淡島千景と森繁久彌の主演で、作者も違い続編とは言えないが、重ねて見るのが普通であり、映画会社もそのことを意識していたに違いない。ただ、『花のれん』は吉三郎の死去に伴い、前半早くに男があっさり退場してしまう。
 吉本せいも夫の泰三を早くに亡くすから、寄席の近代化興行の手腕も合わせ、たしかに多加の造形にはせいのプロフィールを重ねている。ただし、吉本せいが1889年、多加が1886年と生年にずれがあり、最初の寄席経営も前者が1912年、後者が1913年と微妙にずらしてある。これは、吉本せいそのままではありませんよ、あくまでモデルですよという作者からのサインであろう。ただ、秀でた商才と女性ならではの経営と芸人に対する細かな心遣いなどは、せいと多加は同じ顔を持つことは疑いない。
 たとえば、木戸の下足の扱い(昔の寄席は畳敷きで客は入口で下駄や靴を脱ぐ)。山崎は当時の関係者に細かな取材をしたらしく描写が細かい。
「客の脱いだ履物を受け取って、合札を渡す。下駄は、鼻緒をすげた表側同士の上合せ、靴は底合せにして、下足札のついた紐でくるっと、廻しにしてくくる。この場合、下足紐は履物を吊る掛釘にかかるだけのワサ分を残して結ぶことと、履物を掛釘に吊った時すぽっと脱け落ちぬよう、履物の中程をうまい工合いにくくり込むことが下足取りのコツだった」
 これら細かな観察は映画など映像作品では脱落してしまう。しかし、言われて初めてそういうものなのかと文章は気づかせ、小説を読む面白さの重要な要素となるのだ。そして下足の間違いで声を荒げた客に、多加が従業員を履物店へ走らせ、上等の桐の下駄を買いそろえ、客を感心させるシーンがある。この客が市会議員の伊藤であり、夫亡き後、商売の鬼となる多加に女を思い出させる存在として重要な役目を負う。
 吉本せいもまた、寄席の下足の扱いに気を遣ったことは、大阪の笑芸作家・香川登志緒の証言がある(『大阪の笑芸人』晶文社)。1917年生まれの香川は幼年時代から寄席通いをする子どもで、昭和初期からの上方の笑芸界を体験的に知る。「南の法善寺花月などで雨降りの日に彼女がお茶子を指揮しながら泥に汚れたお客の下駄をバケツの水で洗いなどしている光景を目撃している」という。「そない寄席が好きやったら……」と、香川登志緒少年を「木戸御免」(木戸銭はタダ)にしてくれたのも吉本せいであった。
天満の天神裏に初の寄席
 上方笑芸界と近代都市大阪に関心を持ち続ける私としては、『花のれん』もまた、物語を離れて、その証言集として読んでしまうところがある。丁寧に読む時はいつもそうするように、今回も新潮文庫の本文へ入る前の扉やその対向ページの余白に、気になる項目をピックアップして記し、一種のインデックスを作った。「一銭寄席」、「新町」(大阪3大遊郭)、「正弁丹吾」、「道頓堀」、「芸人横丁」、「通天閣」などがその一例。ページ数も入れておくと、あとで気になる個所が即時に閲覧できるのだ。

 多加は最初、夫の吉三郎を主人とする呉服屋に嫁ぐが、肝心の吉三郎は商売に身が入らず、節季の払い(断りを言う)に苦しむ多加の姿が冒頭に登場する。かつて商取引は、いちいちの現金払いではなく付け(もしくは手形)で、盆と暮れ、あるいは「五節季」(年5回)にまとめて支払っていた。
 ひいき芸人の「ガマ口」(大きな口をパクパクさせるところからついてあだな)と芸者遊びをする吉三郎に「それやったら、いっそのこと、毎日、芸人さんと一緒に居て商売になる寄席しなはったらどうだす」と、進退窮まった多加が提案して、寄席興行に乗り出すのだ。
 ガマ口の斡旋で、最初に買ったのが「天満の天神さんの裏」にあった場末の小屋。「天満亭」と名付け、一流の寄席に占められた落語家を呼ぶことができず、色物(物まね、音曲、剣舞、軽口などの諸芸)中心の出し物となった。一流の木戸銭が10銭のところ5銭に値下げしての門出だ。これが明治44年のこと。吉本せいが同じ場所に寄席を始めたのは明治45年。驚くことに、まさにこの場所に、現在上方落語の定席小屋「天満天神繁昌亭」がある。
 落語が主流で、色物の地位は低く、それがやがてエンタツ・アチャコの出現で漫才の時代が到来する。それを仕掛けたのも多加(吉本せい)であった。『花のれん』は、安来やすぎ節の大流行も合わせ、大正、昭和へかけての上方演芸界の変遷もフォローする。
 前掲書『大阪の笑芸人』によれば「それまで大阪の各地にあった寄席にはそれぞれの太夫元、いわば個人の経営者がいて企業というよりもある程度趣味的な運営が行われていたのだが、吉本興行部の設立によって寄席のチェーンストアー的多角経営が行われ企業としての寄席経営が成り立ってきたように思われる」。芸人へのギャラの支払いを月給制にしたのも「吉本」だった。それらの事情も踏まえて、『花のれん』は史実に虚飾を織り交ぜ、上方笑芸界と近代都市大阪の発展を叙述していくのだった。
(次号へ続く)
(写真は全て筆者撮影)

≪春陽堂書店編集部からのお知らせ≫
この度、当連載が早くも本になりました!


『ふくらむ読書』(春陽堂書店)岡崎武志・著
「本を読む楽しみって何だろう」
『オカタケのふくらむ読書』掲載作品に加え、前連載『岡崎武志的LIFE オカタケな日々』から「読書」にまつわる章をPICK UPして書籍化!
1冊の本からどんどん世界をふくらませます。
本のサイズ:四六判/並製/208P
発行日:2024/5/28
ISBN:978-4-394-90484-7
価格:2,200 円(税込)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。
本のサイズ:四六判/250ページ
発行日:2021/11/24
ISBN:978-4-394-90409-0
価格:1,980 円(税込)

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。