岡崎 武志

第27回 柳田國男『炭焼日記』を読む

 1944年から45年にかけての戦中日記、柳田國男『炭焼日記』の存在を知ったのは原武史の文章による。2020年5月23日付「朝日新聞」土曜版連載「歴史のダイヤグラム」に「柿生の『離宮』と柳田國男」が掲載された。民俗学者の柳田が、戦争末期の非常時によく散歩をしていたという記述に注目、『炭焼日記』が読みたくなった。
「例えば44年2月16日には、柿生かきお駅から稲城村(現・稲城市)の杉山神社や天満神社に立ち寄りながら、南武鉄道(現・JR南武線)の稲城長沼駅まで歩いている。柳田は当時68歳だったが、『二里を超ゆる』起伏に富んだ道を歩き通したのだ」
 この記述に驚いた。柳田(1875~1962)は87歳まで生き、長命だったが、当時としては68歳は古老の域に達している。柿生から稲城長沼まで、途中、多摩の広大な丘陵地をたどることになり、2里(約8キロ)の道程は、平坦な道のそれと比較にならない。恐るべき脚力だ。原の記事に「自宅の庭を歩く柳田國男」という和服姿の写真は1961年撮影。背景にうっそうたる樹々が見え、自宅というよりどこかの公園みたいだ。
 昭和2(1927)年52歳の時、移り住んだのが世田谷区成城町。これは現在の地名で、昭和2年当時は北多摩郡砧村字喜多見。小田急小田原線「成城学園前」を挟んで、南北に広がるのが現「成城」町。挟まって東に「砧」、西に「喜多見」がある。しかし昔の地図を見ると、「砧」は今挙げた町名に、南は東名高速を越えて「大蔵」「鎌田」あたりまで、大きく広がっていた。多摩川の北に「砧浄水場前」「砧本村」バス停などにも旧村名が残る。
 それで一つ判明したのは、成城学園駅の北、成城5丁目に「キヌタ文庫」(「成城キヌタ文庫」)という古本屋が昔からあるが、なぜ成城なのにキヌタ(砧)なのかと疑問に思っていたのだ。「日本の古本屋」のサイトを見ると、自店紹介文に「文士の街・成城で75年古書店を営んでおります。成城に有り何故「キヌタ(砧)」なのかと思われがちですが、成城の地はその昔「神奈川県北多摩郡砧村」の一部でしたその名残を称しております」と、ちゃんと書かれてある。本を読み、疑問を持ち、調べることで少しずつ賢くなっていく。
 さあ、『炭焼日記』を手に入れよう。最初に単行本化されたのは修道社から1958年。同社からのち『柳田國男選集』が出てここにも収録された。あとは筑摩書房より2度全集が出て(細かなデータは割愛)、ちくま文庫版はこの定本全集をもとに作られた。ネットでは多数、各種販売されていて、1000円ぐらいから入手可能。
 しかし、私は何も急がない。収集リストの1冊と割り切って、しばらく古本屋や古書即売会で網を張ることとした。ところが、修道社版は目にとまらず、筑摩の全集はよく見かけるものの(100円~300円)、『炭焼日記』所収の「32」(最終巻)がなかなか見つからない。全集というものは、初回発売の巻の部数は多いが、あとあとになると目減りしていくものだ。最終巻はたいてい書簡や単行本未収録作、年譜ほか資料的意味合いを持つことが多く、若い巻より地味である。全巻のうち、とくに入手しがたい巻を古書用語で「キキメ」と呼んだりもする。筑摩版の全集はよく売れたらしく、ほかの巻はたやすく見るが「32」のみ、いつも空振りだった。
 ようやく入手したのは探し始めて半年後、仙台市の「阿武隈書房」でちくま文庫版を発見。本体定価が1000円で古書価は300円と安い。前の持ち主による赤いチェック印が方々に入っていることは後で気づいたが、だから安かったのだ。おかげで気兼ねなしに、どんどん私もラインを引いて、付箋を貼った。

水曜日はお散歩に
「32」巻には『炭焼日記』のほか、初期詩編や散文、巻末に全巻の「総目次」「収録著作索引」を付す。ここでは『炭焼日記』のみに触れる。不思議な日記名は、物資不足の戦争末期、実際に柳田が庭に炭焼窯を作って炭を焼いていたことに由来する。しかし実際の記述を読むと「半分は灰になり、四分の一は生木」「生焼け多かるべし」「生やけと灰と多し。歎息不止」と、なかなか素人に炭を焼くことは難しかったようだ。
 日記はほぼ毎日書かれ、自然の移ろいや動植物の記述、読書、物資不足や来客(多い)、そして後半、激しくなる空襲。この日常と非日常が静かな筆致で綴られ、大変読みやすい。昭和19年2月26日に外出した際の記述。
「かえりに白木や丸善などによる、荒涼の感ふかし。/電車の中のあらあらしさにもあきれる、少女の頭を打つ男あり」
 何気ない記述だが、切迫した庶民の生活と心が荒れていく様子がわかる。昭和19年1月には未婚女性の軍需工場の動員が始まり、東京・名古屋に疎開命令が発令される。3月は歌舞伎座、宝塚歌劇団が休場、休演、新聞の夕刊が廃止、旅客輸送制限の公布で寝台車・食堂車がなくなった。
 柳田邸への来客の多さはすでに触れたが、ほぼ毎日のように知人や出版関係者が訪れている。彼らはみな、お土産を携えて来る。米、小豆、煙草、野菜、原稿用紙、もち、ひもの、闇で仕入れたバター、砂糖、卵など豊富でいずれも生活必需品ばかり。名士かつ交友関係の広さがもたらした役得だ。なかには「ピーナッツバター」まであり、これは石橋貞吉ていきち。のちの文芸評論家・山本健吉。
 そして散歩への強い偏愛が見てとれる。しかも近所をぶらりと散策、という域を越え、電車を使っての遠出も多いのが特徴か。
「きょう電車の遠足、帝都線から省線、吉祥寺、立川のりかえ、八王子に行って見る、由木行のバスはもう出なくなって居る。/横浜線原町田まで、山あいの冬木立はよし、(中略)新原町田から乗車、東生田下車、バスの埃をあびて少しあるく。榎戸などいう所を通り、登戸の長念寺、丸山教会の前をとおり停車場へ、三時前にかえる」(昭和19年1月5日)
「原町田」は現・横浜線「町田」、「新原町田」は同様に小田急小田原線「町田」の旧駅名。植草甚一も1974年の文章で「ぼくの家は経堂にあるので、ときどき小田急で新原町田まで散歩に行きたくなる」なんて書いている。柳田の散歩も交通路線図を対照させると、広範囲に及ぶことあきれるほどだ。しかも、散歩に出かける日をチェックすると、いずれも水曜日であることに気づくのだ。以下、次号へ。
(写真は全て筆者撮影)

≪春陽堂書店編集部からのお知らせ≫
この度、当連載が早くも本になります!


『ふくらむ読書』(春陽堂書店)岡崎武志・著
「本を読む楽しみって何だろう」
『オカタケのふくらむ読書』掲載作品に加え、前連載『岡崎武志的LIFE オカタケな日々』から「読書」にまつわる章をPICK UPして書籍化!
1冊の本からどんどん世界をふくらませます。
本のサイズ:四六判/並製/208P
発行日:2024/5/28
ISBN:978-4-394-90484-7
価格:2,200 円(税込)


『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。
本のサイズ:四六判/250ページ
発行日:2021/11/24
ISBN:978-4-394-90409-0
価格:1,980 円(税込)

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。