松井 久子
第9回 学者の書斎
 目を覚ますと、窓のカーテンを半分開けた光のなかに逸平の背中が見える。
 逆光に黒く浮かぶ彼のシルエットは、いつまで経っても微動だにしない。
 時計に目をやると、まだ午前5時40分。
 また本を読んでいるようだ。
 まどろみのなかで、椅子に座る彼の背を見ながら改めて、自分の暮らしや境遇が大きく変わったのだと考える。
 去年の夏、とりあえずの衣類をボストンバッグに詰めてこの家にやってきたとき、書斎の西側、クローゼットの前に置かれたシングルベッドを見て、
「寝室はここでいい、ここにしたい」と彼に言った。自然に口をついた言葉だった。
 本に埋もれるようにして眠りにつき、書籍に囲まれた部屋で目を覚ます暮らし。昔からそんなものに憧れていたのと、逸平の日常を以前のまま、できるだけ変えないようにしてあげたいとの思いからだった。
 それで逸平の書斎は、それまで使っていたシングルベッドをダブルベッドに替えた以外、昔のまま、何ひとつ変わっていない。
 私が来る前は、玄関前の長い廊下の壁や、4階建ての家のすべての階段に作りつけた書棚がおびただしい数の本で埋まった、図書館のような家だった。
 ところが逸平は、私との再婚を機に、これらの書籍の半分近くを捨ててしまったのである。
 学者にとって書物はいのちの次に大事なものと思っていたが、
「本にしがみついていたら、生き直すことなどできないよ」と言って。
 生き直す―。90歳を過ぎて、そんなことが言える人がいたんだ…と、私は彼の言葉に驚嘆し、惚れ直す思いだった。
 そして私がこの家に来てからも、処分の折にまったく手をつけなかった書物の並んだ、この部屋での仕事は変わらず続いているようだ。
 じっさい、学者とはこういうものなのかと、日々彼の姿を見ていると興味深いことばかりである。
 たとえば何か思索をするとき、椅子に座って腕を組み、東側の窓の外、多摩川のゆったりとした流れを見ながら、あるいは河川敷でサッカーボールを追いかける子どもたちの姿を眺めながら、1時間も2時間も、まったく動かず考えている。ただ考えている。
 論文の、次の1行を書き始めるまでに、こんなにも長い時間をかけるのか? と、自分がものを書くときのスタイルとのあまりの違いに、最初は驚きを禁じ得なかった。
 たとえば私は、流し台の前で料理の下拵したごしらえを済ませ、鍋を火にかけたその足で台所から自室に移動し、パソコンに向かえば、すぐに書くべき原稿の世界に入ってキーボードを叩き始めることができる。もちろんそれは書くものの種類がまったく違うのと、私の場合は料理をしながらも、そのとき書いている原稿の内容について、絶えず考えているからだ。
 ところが逸平の場合は、何をするにも集中力を高め、熟考して、その熟考に途方もない時間をかける。
 最初はその長考ぶりに驚いて、さすが思想史家とはこういうものかと、書斎での彼の姿を何時間でも飽きずに眺めていた。
 いま90歳の我が夫は、大学教師の職を定年で終えた70歳のときから、20年間、ずっと自分が主宰する小さな市民講座を続けてきた。
 70代の頃はあちこちのカルチャー・スクールや勉強会に招かれて講義をすることも多かったというが、近年は彼自身が主宰し運営する講座を、東京と大阪で毎月一度、規則正しく続けてきたのである。
 私も一昨年の夏から受講生として通うようになって、畑はまったく違うものの、自分の映画の観てもらい方と共通のものを感じたのだった。
 たとえば私なら観客が、逸平なら受講生がどんなに少人数でも、いえ、むしろ少人数であることで、密な人的繫がりができる。二人とも「受け手」との一体感を大切にしてきたのである。そして、お互い「受け手」に育てられてきたという点もよく似ている。
 彼のように、元大学教授が退官後、コツコツと少人数の講座を続けてきたというのも稀だろうし、私のように映画を介して観客の輪をつくってきた映画監督も滅多にいないだろう。
 そんなふたりが、このようにして出会い夫婦になったのも、運命というものだろうか?
 逸平は、毎月講座の日程が決まると、自分のSNSで「自由にご参加ください。その日受講された方が私の思想史講座の会員です」と呼びかけてきた。そして私は、そのリベラルなやり方を好ましいと思い2年前の秋から参加した。
 毎回の受講生は30人ほどだが、メディアにも出ることのない90歳の老思想史家には、今も一定数の根強いファンがいるのである。
 その方たちに高い受講料を支払わせては申し訳ないと、毎回1講座1000円をいただくだけで、書き上げたばかりのA4で20頁ほどの論文を、自らコピーしホッチキスで留めてきては受講者に配るのが習慣だった。大阪の講座には新幹線で通い、ホテルで1泊していたから、毎回完全な赤字である。それでも「生涯一講師」を老いの理想形と定め、リタイアなど考えたこともない70代、80代だった。
 講座のテーマは、『日本近代思想批判』『アジアはどう語られてきたか』『本居宣長とは誰か』『昭和とは何であったか』『歎異抄の近代』、そして『思想史家が読む論語』などなどと、実に幅広い。
 そしてそれぞれのテーマの講義が1年ほど続くと、講座で使ったレジュメ論文をもとに1冊の単行本が出版され、彼の著書は大学教授時代とあわせると、ゆうに30冊を越えている。中国では、全10巻ほどの全集も出版されている。
 そのようにして逸平は、まさに読むことと書くことだけに人生を捧げてきた人なのだ。
 その彼が、長年続けてきた市民講座を次の9月で最後にするという。
 大阪は去年の夏で終わりにしているので、東京で月に一度だけの開催なら、健康のためにも続けたほうがいいのでは? と思うが、
「ちょうど潮時のような気がする」と潔い。
「ところで、あなたの亡くなった奥さんや、娘夫婦や孫娘や…といった家族はあなたの講座を受けることがあったの?」
 と、聞いてみたことがある。
 すると逸平は、からからと笑い声を上げて、
「そんなもん、あるわけないじゃないか」
 と答えた。
 信じられない。マイクも使わず3時間、立ちっぱなしで講義する、彼のいちばんかっこいい姿を家族が知らないなんて。
 ところが逸平の答え方は、「そんなこと考えたこともない」といった風情である。
「書いた本も読まないの?」
「読まないさ、もちろん。でもね、知美は僕の本が出るたびに、SNSで宣伝しているみたいだよ」
 サバサバした言い方をする逸平は、「家族とはそんなもの」と思っているのだろうか?
 もうじき還暦を迎える娘とその夫が、90歳の父親とずっと同じ屋根の下で暮らしている。家族誰かの誕生日には、必ず皆で高級レストランに集まって、祝いの宴席を囲む。
 私も逸平とのつきあいが始まった頃、誕生会の席に招かれて、なんて素敵な家族だろうと思ったものだ。
 そのいっぽうで、彼は私へのメールで告げていた。
「仕事か、家族か? いや、家族などとうに壊れている…」
 最初は意味がわからなかった。が、何度か会ううち、
「食事はジムの帰りに、スーパーやコンビニで買ってきた惣菜で済ませている」
 と言葉少なに話しはじめる。
 それをなんとかできないかと思い始めた頃、知美さんのほうから「正式な結婚」を勧められたのだった。
 そして去年の夏から私がやってきて、夕食は4人で一緒にとるようになった。
 当番制で食事をつくり、食卓に家族の団欒だんらんが戻っている。
 私が家族の潤滑油になってあげられるといいなと思い、引っ越してきたのだが…。

第10回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。