岡崎 武志

第14回 007シリーズふたたび

 前回に引き続き「007シリーズ」の話を。まさか2回も書くことになるとは。
 映画に影響されて、ようやく原作『007/カジノ・ロワイヤル』(創元推理文庫)を手に取った話から(以下『カジノ・ロワイヤル』と表記)。映画が、意外に原作に忠実であることは前回書いた。

 原作を読むために、手っ取り早く近くの図書館から借り出したのは新訳(白石ろう)で、その後旧訳を、こちらは古本屋で手に入れた。同じ店でポケミス(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)版の『007号/黄金の銃を持つ男』(早川書房)と『007/ムーンレイカー』(創元推理文庫)も購入。『カジノ・ロワイヤル』が改訳されたのは2019年。それまでは、早川書房版も含め井上一夫が一手に訳していた。井上訳の初版が1963年だから、さすがに様々な点が古びてくる。巻頭近くのボンドの描写で2者を並べてみる。
「ジェームズ・ボンドは、急に自分が疲れているのに気がついた。ボンドはいつも、心身の限界を心得ていて、それによって行動している。おかげでうっかり気をぬいたり、勘がにぶくなったりするような、へまの種になることからまぬかれていられるのだった」(井上訳)
「ジェームズ・ボンドはふいに自分が疲れていることに気がついた。肉体や精神が限界に達したときにはいつでもわかり、その教えにしたがって行動することを心がけている。それでこそ、注意力が散漫になったり感覚が鈍ったりといったミスの原因を避けられるのだ」(白石訳)
 原文を参照して比較する語学力はないが、両者に大きな違いはない、と思える。「へまの種」が、「ミスの原因」に改まっている点は、やや現代的感覚に近いと思えるが、井上訳でもじゅうぶん楽しめるはずだ。
 解説は旧版の杉江すぎえ松恋まつこいの原稿をそのまま踏襲。ただし、私が入手したのは同じ井上一夫訳ながら版を組み替えた新版(2006)で、それ以前は別の解説だった可能性が高い(ちゃんと調べろよ、という話だが)。そして、この杉江解説が作品紹介として行き届き、すぐれた出来で、われわれ大阪人なら「銭の取れる仕事や」と言うところ。今回は、この杉江解説と入手した他の作品解説、それに丸谷才一の「イアン・フレミングと女たち」(『青い雨傘』(文芸春秋)所収)によりかかって叙述する。
 007シリーズ愛読者なら当然知っていることばかりかもしれないが、みなさんが私と同じ初心者であることを希望します。
イアン・フレミングという男
 007シリーズの著者については何も知らなかった。『007/ムーンレイカー』解説で厚木淳が文学事典ふうに生涯を祖述している。そこからエッセンスのみ抽出し他から得た情報も含めて補足するとこうだ。
 イアン・フレミングは1908年にイギリスで国会議員の父を持つ家庭に生まれた。名門大学へ進学するも中退、1929年から数年、ロイター通信の記者を務めベルリン、モスクワへ。ここで国際感覚を身に着けたか。のち、銀行、証券会社勤務を経て(経済にも明るい)、1939年からタイムズ紙特派員としてモスクワに赴任。007シリーズの物語にロシアがよく登場するのは、経験から国内事情をよく知っていたからである。そして大事なのは、タイムズ時代に海軍情報部長として第二次大戦に参戦したことだ。「情報部」とは、つまり007の世界である。ただし、世界を牛耳ようとする誇大妄想狂の秘密基地に乗り込み爆破し、美女とスキーで逃走するような冒険はなく、もっぱら事務仕事であった。それでもここでの見聞と体験が、派手なスパイ小説の源泉になったことは疑いない。
 イアン・フレミングはなぜかずっと独身(ただし丸谷才一によると、よく女にもてた)で、1952年にアン・ジェラルディーンと結婚。もう40代半ばでこれが初婚。妻のアンは伯爵夫人の時代から男女のつきあいがあり、しかも、貴族の娘と二股をかけていた。このあたり、自身の恋愛も派手である。
 そして1952年に書き始めたのが『カジノ・ロワイヤル』であった。この年、著者は44歳になるから、ずいぶん遅咲きの作家デビューである。そして、ほぼ毎年1作ずつシリーズを書き上げ、『黄金の銃を持つ男』が最後の作品となる。1964年のことで、厚木解説によれば同作を「校正中に心臓麻痺で死亡」したという。短い作家生活だったが、60年後にも映画化が継続されるほど、長い人気を持続できた。「趣味は初版本蒐集とヤスによる魚取り、カード、ゴルフ(ハンディ九)」。
 小説を書かなくても十分、波乱に満ちたうらやましい人生だったようだ。1964年といえば「007」シリーズの映画は、第3作『ゴールド・フィンガー』まで公開されている。いずれもボンド役やショーン・コネリー。原作者はこのボンドを気に入っただろうか。映画の成功も知った上での死だったらしい。杉江松恋はこう書く。
「当初は著者のイアン・フレミングも、ボンドを『一介の野暮な公務員』としてしか認識していなかったという。ボンドが偶像化されたのは、シリーズに熱中した読者の後押しがあったためなのである。六〇年代に入ると次々に原作が映画化されたため、さらに超人化は進展した」
 つまり、映画の人気に引きずられて、読者の要望に応えるようにシリーズ作品を書いていた。しかしこれは作家の在り方としては幸福ではないか。
 危険をつねに背負いながら、ボンドの生活もまた優雅で幸福だった。たとえば朝食。
「水のシャワーを浴び、空を見晴らすテーブルにつく。美しく晴れわたった空を見ながら、大ぶりのグラスに半分ほどのよく冷えたオレンジジュースを飲み、ベーコンを添えた卵三個のスクランブルエッグを食べ、ブラックコーヒーをダブルで飲む。それから、この日最初のタバコに火をつけて(以下、略)」(『カジノ・ロワイヤル』)。
 こいつはうまそうだ。
 どんなに危ない目に遭っても、ボンドに決して死が訪れぬことを読者は知っている。危険は人生の増強剤だった。いつも名車を駆って事件と美女の待つ次の任地へ向かう色男がボンド。うらやむところだけ、読者はうらやめばいいのである。
(写真は全て筆者撮影)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。