岡崎 武志

第13回 007シリーズとイアン・フレミング

 イアン・フレミング『007/カジノ・ロワイヤル』(創元推理文庫)を読んだ。2019年刊の白石ろうによる新訳。数日前までその気配もなかったことである。これはごぞんじ、007シリーズの第1作で、1953年に元本が出された。昭和でいえば28年。『経済白書』が「もはや戦後ではない」と述べたのは昭和31年。日本は戦後の混乱を引きずり、まだ世界に肩を並べる位置になかった。このような国際感覚にあふれた、おしゃれでゴージャスな小説が受け入れられるにはまだまだ時間がかかったのではないか。

 日本でちゃんと人気が出たのは、やはり映画化によるものだろう。私もそうだった。映画はおそらく全作を見ているが、原作まで手が伸びなかった。必要を感じなかったのである。だから、今回の読書がイアン・フレミング初体験。
 きっかけはやはり映画だった。BS日テレで数カ月かけて、毎週木曜夜、007シリーズ24作を放送するという。いい機会だと思い、毎回を録画(CM飛ばしができる)して視聴した。直近の9月28日が21作目『カジノ・ロワイヤル』。第6代目ジェームス・ボンド役ダニエル・クレイグ初登板にして、ストーリー上のボンド初登場の回だった。
 アクションはより派手で過激になり、冒頭の追っかけシーンで、建設中のビルの鉄骨からクレーンのアームに飛び移り、そこで格闘するなど、どうやって撮影したのか不安になるほど危険がいっぱいで迫真力に富む。文章でこれだけ目まぐるしい動きを再現するのは難しい。いったいどうなっているのか、と原作に向き合ったわけであった。
 この傾向は、5代目ピアース・ブロスナンぐらいから顕著になり、CGが駆使されることもあってボンドの不死身ぶりがほとんど劇画化した感じであった。これに比べたら、なぜかスキーでの逃走シーンが多かった3代目ロジャー・ムーアなど、どこか優雅であった。
 80年代半ばと記憶するが、大阪の高校で教師をしていた頃に担当した学年の修学旅行がスキーだった。下見と本番でスキー場へ出かけ、それが私のスキー初体験。本番が終わって、貸切バスでの帰り道。車内のテレビでは007の『ムーンレイカー』(1979)がビデオで流れていた。
 教師数名で暇つぶしにそれを視聴していたら、飛行機からパラシュートなしで突き落とされたボンドがまさしくロジャー・ムーア。パラシュートありで降下する宿敵ジョーズ(リチャード・キール)と空中で格闘、パラシュートを奪い命拾いをする。ジョーズはそのまま地上へ落下(サーカスのテント)するも、怪我もなく平気。まあ、無茶苦茶である。
 それを見ていた年輩の先生が「ほんまにこんなことできるかぁ?」と真面目に感想を述べたので、一同沸いたことを覚えている。言われてみればその通りだが、そこを問わないのがこのシリーズ。不問の掟を真面目に破った先生の発言がおもしろかったのである。
 しかし、この荒唐無稽なスピーディな展開こそ、このシリーズの魅力でもあった。ベルイマンはすぐれた映画作家だろうが、スキーの帰りにバス車内で見るには適していない。
 ところで、「007」を、現在は「ダブルオーセブン」と呼ぶようだが、かつては「ゼロゼロセブン」と言っていた気がする。このシリーズの影響下に作られた物語は粗製濫造を含め山を成すが、私に近しいところで言えば、石ノ森章太郎(当時、石森)のマンガ『サイボーグ009』は、「ダブルオーナイン」ではなく、「ゼロゼロナイン」であった。ところが、007シリーズの短編集(そんなものがあるとも知らなかった)『007/薔薇と拳銃』(創元推理文庫※井上一夫の旧訳)の石上いしがみ三登志みつとし解説によれば、本国のペーパーバック版『ムーンレイカー』の裏表紙には「ダブル・ゼロ」とされている。そして石上は「わが国では当時はみんな『ゼロ・ゼロ・ナナ』ときわめて日本風に呼んでいた」と言うのだ。うーむ、こんがらがっちゃうなあ。
歴代ボンド役の顔ぶれ
 ちなみに歴代ボンド役を並べておこう。
1代目 ショーン・コネリー
2代目 ジョージ・レーゼンビー
3代目 ロジャー・ムーア
4代目 ティモシー・ダルトン
5代目 ピアース・ブロスナン
6代目 ダニエル・クレイグ
 おしゃれで酒と女に強く、タキシードを着れば紳士、というボンドのイメージを作ったのはショーン・コネリーであることは間違いない。第1作から5作に出演し、これで一度降りたが、6作目のジョージ・レーゼンビーがあまりに冴えず1作のみで降板。次作でコネリーが再登板している。ほか番外編でもボンドを務めて都合7回。
 これに次ぐのがロジャー・ムーアで、8作から14作の7回とこれに並んだ。より好色、ユーモアを強調した新ボンド像を作った点で、ムーアの功績は大きい。吹き替えでは広川太一郎のイメージが強く、本人の声を聴いても広川の声がダブるほど。
 冷戦下というわかりやすい対立の時代、はっきりした悪役に屈することなく最後は勝利するスマートな諜報部員を創出したのがイギリスの作家、イアン・フレミング。この原稿を書くため、にわか漬けで調べた。原作『カジノ・ロワイヤル』もその流れで手に取ったのである。
 映画を見てからすぐ原作を読んだわけだが、読む前に想像したより、はるかに原作に忠実な映画化だった。あらすじは、創元推理文庫カバー裏の解説を借りる。
「イギリスが誇る秘密諜報部で、ある常識はずれの計画がもちあがった。ソ連の重要なスパイで、フランス共産党系労組の大物ル・シッフルを打倒せよ。彼は党の資金を使いこみ、高額のギャンブルで一挙に挽回しようとしていた。それを阻止し破滅させるために送りこまれたのは、冷酷な殺人をも厭わない007のコードをもつ男――ジェームズ・ボンド」
 この続きは次回へ。
(写真は全て筆者撮影)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。