岡崎 武志

第15回 鶴見線ツアー

「去年の夏頃の話である。マグロと恋愛する夢を見て悩んでいたある日、当のマグロともスーパージェッターとも判らんやつから、いきなり、電話が掛かって来て、ともかくどこかへ出掛けろとしつこく言い、結局海芝浦という駅に行かされる羽目になった」
 これは笙野しょうの頼子よりこ『タイムスリップ・コンビナート』巻頭の一節。かなり唐突で、謎を多く含む文章だ。しかし、これが笙野の文学で、以後も細部はリアルでありながら、夢の中をさまようように話は進んでいく。このあとをもう少し引く。
「───そこはJR鶴見線の終着駅で長いホームの一方が海に面している。もう一方に出口は一応あるものの、それは東芝の工場の通用口を兼ねたもので、社員以外の人間は立ち入り禁止である」
 JRの終着駅ながら特殊な条件(改札口が東芝工場の通用口を兼ねる)のため、一般の乗客は外へ出られない。つまり「折り返しの電車が出るまでただホームに立ち尽くしている事しか出来ない」のが「海芝浦うみしばうら」駅だ。ただし、ホームのすぐ先が海(旭運河)というロケーションが異次元的で素晴らしく、折り返し発車の15分ほどの間、ここに降り立つために訪れる観光客が絶えないのだ。
 というわけで、10月の末の土曜日、「海芝浦」駅めがけて鶴見線に乗ってきた。「オカタケ散歩」と称して、有志の会員(通常10名内外)を引き連れてあちこち文学にゆかりの地を散策しているが、この回は鶴見線と『タイムスリップ・コンビナート』だ。
 私はずいぶん前に一度、乗車済み。それからあまりに時間が空いて、当日ガイドする自信がなかったから、2週前の土曜に下見をしている。手間がかかっておるのですよ。
 鶴見線乗車ならJR「鶴見」駅を出発とするところを、ひと駅横浜側の「花月総持寺かげつそうじじ」駅を集合にした。これには理由がある。この駅は「花月園前かげつえんまえと名乗っていた。現在、駅のすぐ西側が小高い丘で、東側には住宅地が広がる、特徴のない駅だが、その小高い丘の上に「花月園」という遊園地があった。詳述はしないが、1914年に開園、広大な土地に様々な遊具やアトラクション、劇場とダンスホールまで備えた日本初の大型遊園地だった。戦前までにぎわったが、あちこちに遊園地が作られたこともあり衰微し、1946年に閉園している。
 跡地に「花月園競輪場」ができるも2010年に終了し、現在は「鶴見花月園公園」になっている。街を歩くと駅名に残された「花月(園)」を冠した店名や表示をあちこちで見る。私はそのことをよしとする。土地の名前には霊力があるのだ。
海の上に浮かぶような海芝浦駅
「花月園」は地上駅で橋上に改札があり、長い跨線橋が東西に渡る。長いのも道理、ここには横須賀線、京浜東北線、東海道本線、京急本線、貨物線など10本以上の線路が横たわり、よって踏切も対岸で待つ人が小さく見えるほど距離が長い。開かずの踏切、日本一長い踏切としても有名。わざわざこの踏切を渡るため訪ねる人もいる。この日も4~5分待って(これは短い方)、歩きだしたら、途中でまた警報が鳴りだした。一番東側の京急本線には別の踏切があり、この手前で待機することもある。
 この踏切を抜け、少し歩くと第一京浜国道にぶつかる。ここに「鶴見」駅からひとつ目の鶴見線駅「国道」がある。国道の脇にあるから「国道」と命名された。検索すると、多数の画像がアップされているのは、高架下がコンクリートのドームになっていることで、1930年開業のまま、遺構のように現存している。現在は閉ざされた両側には、かつて「臨港デパート」と名付けられ店舗付き住宅として繁盛したというが、その面影はない。
 ドーム入口の外壁には戦時中の機銃掃射による弾痕がはっきり認められる。抑えどころ満載の鉄道スポットで、ぜひ同行の人たちに見せておきたかった。この「国道」駅(無人改札)からやっと鶴見線に乗車。午後の時間帯、1時間に2本しかなく、しかも海芝浦駅行きは1本のみ。慎重にタイムスケジュールを組んでの行動だ。
 鶴見線は臨海の埋め立て地に作られた工業地帯を走る。車窓から見えるのはほぼ工場。人影もない風景は都会に隣接する異空間である。「カモメ公害注意の表示がある国道駅、日本鋼管工事倉庫、工事倉庫とは何か、国旗が翻る。工場だってやけに大きく、小型船の速度も上がっている」というのは『タイムスリップ・コンビナート』の描写。巨大な工場だけがどこまでも続く風景を、仕事を依頼したマグロ(編集者であろう)は「ブレードランナー」みたいだという。きわめて近未来的風景の中を、秘境駅を走るローカル線のような鶴見線が駆け抜けていく。
 国道駅から10分ほどでもう海芝浦駅のホームに到着。途中、浅野駅からずっと左手車窓尾は海で、まるで海の上を滑って走るような気分になるのだ。海芝浦駅は先に触れたとおり、改札は不出だが、ホームの先に小さな公園が作られている。東芝の敷地内となるが、これは訪問客への好意だろう。この日は20名近くが下車。15分ほどで、また来た電車に乗って帰っていく……というか、それしか手がないのだ。『タイムスリップ・コンビナート』には「東芝の玄関前は植え込みになっているが、塀で囲ってあって海は見えない。ホームに戻ると華やかな女性は疲れたようなひどく悲し気な顔で黙りこくっていた。普段は無口なのかもしれなかった」と記している。
 同作は1994年6月号『文學界』に発表、第111回芥川賞を受賞している。1995年公開の是枝裕和初監督作品『幻の光』に、国道駅と海をバックにした海芝浦駅が登場する。宮本輝原作の小説も、映画も舞台は尼崎あたりなのだが、映画ではわざわざこの鶴見線でロケをしている。是枝監督は果たして『タイムスリップ・コンビナート』を読んで、わざわざ鶴見線をロケハンしたのであろうか。
『タイムスリップ・コンビナート』は文藝春秋から単行本化され、のち文春文庫に入ったが現在品切れ。『笙野頼子三冠小説集』(河出文庫)で読むことができる。「三冠」とは、「野間文芸新人賞」「三島賞」「芥川賞」と純文学の有力文学賞を3つも受賞したことを指す。
 なお、海芝浦駅へ行くなら、なにしろ本数が少ないから綿密な事前の調査が必要だ。吹きっさらしだから冬は寒いと思いますよ。

(写真は全て筆者撮影)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。