【第88回】


上林暁「花の精」とはこんな話
 わりあいすぐに行けるから、いつでも行けるという安心感から、かえって足が遠のいていたということがあります。私にとっては是政駅(西武多摩川線)がそうだった。私が最寄り駅とする中央線「国立」駅から「武蔵境」駅で乗り換え、終点の「是政これまさ」駅。ここは昭和15年に書かれた上林暁のエッセイ風小説「花の精」の舞台となった地である。2019年のセンター試験「国語」に、この一部が出題され、我々、地味な小説好きの間ではちょっと話題になった。「まさか」という感じであったが、この小説が高校国語の教科書に採択されたことがあると後で知る。しかし授業でやるとなるとなかなか難物である。
 初出は昭和15年の『知性』。単行本『野』に収録。私がテキストとしたのは現代教養文庫の『武蔵野』(昭和37年・社会思想社)で、大竹新助の写真(モノクロ)が多数使われている。私はすでに持っていたのに、古本市でカバーなしを100円で見つけ喜んで買った。カバー付きなら500円以下で買えることはないだろう。自分で絵画展のちらしをカバーとして巻き、タイトルを書き、思う存分ラインを引きながら読むことにした。
「武蔵野をたずねて」という序文に続き、2番目に登場するのが「花の精」で、いまや上林暁と言えばこの人、と鉄板の関係にある山本善行によれば、初出とは少し中身が違うようである。今回は、『武蔵野』のテキストを元に現地を訪ねたのでこれをテキストとする。
 簡単に中身を紹介しておこう。まず書き出し。
「その月見草の太い株が、植木屋の若い職人が腰に挟んでいた剪定鋏で扭じ切られているのを見たとき、私は胸がドキドキして、口がきけなかった。私は自分の全身から血の引くのがよくわかった」
 大切に庭で育て、その名のごとく月が出るころに花が咲くのを楽しみにしてきたのだった。それを庭木職人が誤って切ってしまったのだ(花が咲いていないので草と間違えた)。「私」のショックは大きく、子どもにも、同居する妹にもそのことを訴えるのだった。「朝晩庭に降りるのが楽しみであったのに、今はもう庭下駄をつっかける気にもならず、心にもからだにも張りを失ったようであった」というから、相当なものである。
 そんなことがあってから「十日と経たぬうち」の6月の中旬、釣り好きの友人「O君」が家に訪ねてきた時、ふたたび月見草のことを語ると、「是政へ行けば、月見草なんか川原にいっぱい咲いている」と言う。さっそく多摩川で釣りをするO君と是政へ向かうことになった。そして昭和15年当時の西武多摩川線に乗って是政へ。川原には月見草の群落があり、「私」はひと束抜いて家に持ち帰る。庭に植えると、それはぶじに咲いた。そういう話である。


古本屋と富士塚
 とくにドラマチックな展開があるわけではないし、人に話して聞かせて感激させる自信もない小説だ。しかし、この低出力で手のひらに乗るような小品が、なんともしみじみして心に残るのである。私はすでに10回近くは読んでいるか。バッハのピアノ曲を何度も聴くようなものである。話の最後、庭にふたたび咲いた月見草を見て、「私」の娘が「めでたく月見草が咲きました」と叫ぶシーンにはパチパチと拍手したくなる。なんともいえない幸福感に包まれるのだ。
 7月30日、昔なら暑中見舞いが届く頃(この夏は1枚もなし)思い立って出かけることにした。こういう酔狂にお付き合い願えるのは、いつもながら同郷の真面目なサラリーマン・散歩堂さんということになる。是政へ行く前にも寄り道があって、西武多摩川線の始発駅「武蔵境」に降り立ったのは3時頃ではなかったか。まだ日は高く、このまま多摩川の河原を歩くのは危険かと思い、少し時間をつぶすことに。
 駅から15分ほど歩いた住宅街にある古本屋「プリシアター・ポストシアター」は初見参。店名の通り、演劇、映画、舞台関連の本や資料が充実している。店頭には大量の均一本も設置されている。いい店だった。それでもまだ日は高い。店の前が東西を走る境南コミュニティ通り。ついでだから、こちらも前から気になっていた「杵築きづき大社」へ向かうことにする。コミュニティ通りを東へ、血液センター前交差点を北上する。
「杵築大社」についての詳しい解説は省略。駅前からすぐのところに、こんな静かな場所が……と驚く。境内の一角に「境富士」と呼ばれる富士塚があるのだ。鯉が泳ぐ小さな池に架けられた橋を渡り、ごつごつした岩でできた富士塚を上る。けっこうな急坂だ。頂上に祠あり。あたりは木々が植わり、見晴らしがいいとは言えないがこれは多摩地区でもかなりのレベルの富士塚であった。一時期、この富士塚巡りに夢中だった時期があり、ずいぶん方々を登頂したがここは未踏だったので満足だ。そしてようやく陽は傾き始めた。

いよいよ是政へ
 武蔵境駅へ戻り、JR駅脇にひっそりと構えた西武多摩川線改札をくぐる。上林暁は6月の中旬、是政に月見草ありと教えてくれた友人のO君と出かけている。
「その日の午後、私たちは省線武蔵境駅からガソリン・カーに乗った。是政行は二時間おきにしか出ないので、しかたなく北多摩行に乗った」
「省線」とは日本の鉄道が運輸省管轄だった時代の呼称。公社化され日本国有鉄道(国鉄)となった時点で「国電」と名が変わった。昭和30年代初めあたりでも、まだ「省線」と呼ぶ人はいた。「ガソリン・カー」というのもギョッとするが、もともと西武多摩川線は大正時代に「多摩鉄道」として出発した。多摩川の砂利運搬がメインの鉄道だったのである。戦後、砂利運搬が廃止。採掘場の跡地に多摩川競艇場ができ、しだいに住宅地と変貌するにつれ乗客輸送の鉄道と変貌していった。
 だから上林が出かけた時代、是政まで乗る客はほとんどいなかっただろうと思う。現在はほぼ毎時5本運行される便(すべて「是政」行き)も、「二時間おきにしか出ない」と言う。「北多摩」まではもう少し本数があったらしい。ただしこれは旧駅名で、現在は「白糸台」である。おそらく是政までは3キロ以上歩いただろう。上林は線路沿いに多摩川へ向かう。線路のそばにはすでに月見草がいっぱいだ。「昨夜の花は萎え凋み、葉は暑さのためにうなだれている」。この萎んだ花が夕方から夜にかけて開くのだ。ところでここで疑問。
 月見草が有名なのは、竹久夢二の詩「宵待草」によるが、「植物に宵待草というのはなく、これは待宵草の誤り」であると松田修『カラー歳時記 草花』(保育社)に書く。さらに「月を待って夕方から咲くという意味で、この点から月見草の名でも呼ばれているが、月見草は白色の花で、待宵草とは別種である」ともある。子どもとの会話「夕方になると黄色い花が咲く草だって」からすると、ひょっとして待宵草と混同したのではないか。しかし、この方面は私も自信がない。「月見草」として話を進める。

 そしてわれらも無事、終点の「是政」駅に着いた。「花の精」には「寂しい野の駅」だとされているが、駅舎こそ新しくなったが乗降客は少なく「寂しい」のは変わりない。現在、すぐ近くを府中街道が通り、そのまま巨大な高架橋(是政橋)となり行く手を塞ぐ。府中街道に沿って多摩川の堤を上がり、「多摩川緑地」として整備された公園へ降りていく。どこかに月見草の群生はないだろうか、と目をこらしつつ堤を歩くと、土手に一叢、黄色い蕾を萎ませた花が見えた。おそらくこれが「月見草(待宵草)」だろう。
 上林は月見草をひと束摘んで、新聞紙にくるみ持ち帰ることにする。武蔵境行き最終電車は7時55分と早い。
「ガソリン・カーはまた激しく揺れた。私は最前頭部にあって、吹き入る夜風を浴びながら、ヘッドライトの照らし出す線路の前方を見詰めていた。是政の駅からして、月見草の駅かと思うほど構内まで月見草が入り込んでいたが、驚いたことには、今ガソリン・カーが走ってゆく前方は、すべて一面、月見草の原なのである」
「花の精」では、そんな幻想的とも思える花の風景が描かれているが、残念ながら現代の私たちをそんな風景は迎えてくれなかった。それでも、ひととき小説の舞台を訪ね、それらしき花を目撃できたことは感激であった。

 上林たちは阿佐ヶ谷駅まで戻ってくると、「大漁だった、大漁だった」と言いながら、駅前のおでん屋で酒を一杯飲んで帰宅する。この気持ち、よくわかります。私と散歩堂さんも、武蔵境駅北口の中華「王将」で、餃子をつまみつつ生ビールを飲んだ。
 これは喪失と獲得の小説であるが、それにしても「月見草」への強い執着には少し驚かされる。「私は、花の精が還ってきたようで嬉しかった。大穴のあいていた私の心はもとに近く満たされ、私は自足した気持ちでそれを眺めた。久しく、久しく病んでいた私の精神の秩序は癒されたのであった」という最終近くの部分など、前知識がなく、本作だけに接した読者には大仰に思えるかもしれない。しかし、「花の精」が書かれた昭和14年は、妻の繁子の発病(精神病)の年であった。『聖ヨハネ病院にて』など一連の病妻ものに結実する入院と闘病という上林にとっても長い闘いの始まりであったことを考えれば、「花の精」に仮託した思いが察せられるはずだ。

<追記>
『花の精』テキストは、今回使った『武蔵野』版と別に全集収録の初出の原稿があります。『武蔵野』版は再録で、かなり細かい点に異同と削除が見受けられます。初出版には、ちゃんと妻の入院と不在の喪失感が描かれています。その点、指摘するべきでした。おわびします   岡崎武志

(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。