事件解決のときふわふわする
『かばん』の企画で対談させてもらったときに、黒沢清さんの映画の話になって、そのときあらためて黒沢清映画についてちゃんとかんがえたことがあった。
黒沢清映画はなんていったらいいだろう。とてもしっかりしたふわふわしたもの。そんなきがする。
殺伐としているんだけれど、同時にふつうの世界を志向しているというか。ねじれたふつう、というか。どういったらいいかわからないもの。まだこの世界でそれをいいあてることばがないかもしれないもの。
黒沢清さんの『ニンゲン合格』をみていると、ねじれたふつうを演じることのできる西島秀俊さんがいる。かれは、おだやかでありながら、物語の文脈からはずれたような行動をときどきとる。だからそのおだやかさもなんだか不穏だ。でも映画自体はすごくおだやかだ。おだやかだが、西島秀俊さんをかたわらでみつめる役所広司さんのおだやかな眼はふおんだ。おだやかなのに、たががはずれている。ふつうが、ふつうでなくなっている。のに、ふつう。
黒沢清映画では、ふつうのふおん、がずうっと描かれる。それは、いつも、ふつうに、やってくる。ふつうにやってくるふおん。それは、ふつうではない。でも、ふつうとしてやってきたのだ。
黒沢映画はこういっているようにもおもえる。あわてないで、ふおんはちゃんとやってくるから。