泡をたてないよう静かに注ぐコーラ(それでも泡はでるのだが)
漫画家の今日マチ子さんがあとがきに書いていた「今までのすべての嘘にありがとう」ということばをよく思い出す。
このことばをはじめて読んだとき、あ、そうだったんだ、とおもった。おもうと同時にわたしに問いかける。
わたしは今までの嘘にすなおに感謝できるだろうか。嘘をことほいで今のじぶんを肯定できるだろうか。
この今日さんの嘘をめぐることばには、なにかしらのほんとがある。
嘘って必ずしもわるいことじゃないんだ。じぶんにとってのよそものでもないんだ。いまのわたしをいままでつむいできたものかもしれないんだ。
そんなふうにおもう。
こんなことばもよく思い出している。「どうしてこんな男が生きているんだ!」
これはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のことば。
わるいことをしたときに、よく、おもいだす。どうしてひとはこんなわるいことをするんだろうとおもう。こんなわるいことをしてそれでも生きてゆくのはなんでだろう。
わたしは電話でいう。「きょう、わるいことをしてきたんです」と。ドストエフスキーのおおくの人物たちのように。「え、なんなの、わるいことって」
でも、そのわるいことにかんして、感謝できる日もくるだろうか。
わるいことをしても、それをふくみあわせながら、いきてゆくこと。ほんとも嘘もいっしょにして、それらを分別しないでいきてゆくこと。こうていすること。
うまいやりかた、うまい悪があるんじゃないだろうか。世界にとっても、わたしにとってもひつような悪が。悪いことが悪いことじゃなくて。愛嬌があって。みんながほほえんでうけいれてくれるような。世界にとってのうまい悪。じぶんのこれまでついた嘘をみつめなおすような。「いや、ないよ」
「嘘だったのにこれでほんとになった」「なんで未来ってこんなにふしぎなんだろ」「過去が嘘をつくから、未来がほんとのことをいうんじゃない」
わすれてしまった嘘。おもいださないようにしている嘘。テレビがついたままの部屋で眼をつむりしんだようにねむっているふりをする記憶。「しんでるの?」とおだやかな息で肩をゆさぶられた記憶。
「それいたいよ」と言った記憶。「それいたいよ」と言われた記憶。あたたかいパンが入った皿をひっくりかえした記憶。やわらかな苺のケーキを踏みつぶした記憶。白い靴をかくした記憶。かくされた白い靴をみつけた記憶。
泣いているひとと眼があった記憶。泣いているひとの左右にゆれるあたまをみていた記憶。「そのひとだれなの?」と言った記憶。あなたの前でわあわあ泣いた記憶。嘘が嘘でもなかった記憶。困った顔でわたしにティッシュをさしだされるその手の記憶。「どうしてこんな男が生きているんだ!」の記憶。でもそれらすべてぜんぶまるごと未来で感謝するかもしれない未来の記憶。