<木綿・染料・顔彩>

「あざみあざやかなあさのあめあがり」 山頭火
 人間の感覚に訴えてくる俳句である。山頭火は「それが正しく表現されるとき、感覚美はおのづから丶丶丶丶丶感覚美以上のものを暗示丶丶する、いはゆる象徴芸術丶丶丶丶が生れる」と書き、これが自分の句作的立脚点であるという。
 山頭火が象徴詩としての俳句に力点を置いていたことは、その日記などからも知れるところ。といって彼の身辺で起こる、いや引き起こすといった方がよいかもしれないが、変転きわまりない複雑な事態を俳句の形式で表現とするのは容易なわざではなかったようだ。苦心惨憺(くしんさんたん)の結果の一つが掲出句ではあるまいか。
 初夏の雨あがりの朝は、空気も澄んで清々しい。昭和七年五月五日、端午の日。山頭火は生まれ故郷の山口県下を、厚東(ことう)から嘉川(かがわ)へと山路を歩いていた。行乞記(ぎょうこつき)には、
「今日ほど途中いろいろの事を考へたことはない、二十数年前が映画のやうにおもひだされた、中学時代に修学旅行で歩いた道ではないか、伯母が妹が友が住んでゐる道ではないか、少年青年壮年を過ごした道ではないか(中略)端午、さうだ、端午のおもひでが私を一層感傷的にした」
 こんな感傷的な気持ちを、掲出句はうまくリズムに乗せてうたっている。このリズムによって伝えられるものは「或る詩人の或る時の或る場所に於ける情調丶丶(にほひ、いろあひ、ひゞき)」だという。それは明確な意味ではなく、不定性の音楽のようなものであるが、これが象徴化への過程なのである。
 掲出句を象徴詩における俳句と見なすのには、なお抵抗があるかもしれない。けれど山頭火の句作態度には一貫して「うたう」意識があったことは間違いない。この場合の素材はあざみ。野あざみは野原に自生し、羽状に裂けた葉や茎には鋭い刺をもつ。それだけで険しい存在だが、これをより浮き出させるために、「あ」の母音を巧みに使う。一句中になんと五回も「あ」音を多用して、醸し出す明るい雰囲気の中で、刺のあるあざみはより際立つものとなる。それには山頭火の感傷も投影され、いよいよ孤独の影は深い。

(出典:山頭火文庫 村上 護 著『山頭火 名句鑑賞』/春陽堂書店刊)

植田 莫(うえだ・ばく)
1946年生まれ。画家。札幌在住、莫工房主宰。東京・大阪でグラフィックデザイナーとしてすごすが、良寛の心と山頭火の感性に憧れて画家に転身する。油絵で画家の道を歩むが染料との出会いで、その発色の面白さ、透明感の美しさに魅せられて以後天竺木綿の生地や和紙に、染料を刷毛染め、筆書きし、顔彩で細部を描き加える独自の絵画で個展活動をしている。
植田 莫HP:http://www.baku.cc/


この記事を書いた人
春陽堂書店編集部
「もっと知的に もっと自由に」をコンセプトに、
春陽堂書店ならではの視点で情報を発信してまいります。