<木綿・染料・顔彩>

「水に影ある旅人である」 山頭火
 水はものを映す鏡の役割を果たす。じっと動かず存在する水面の旅姿の影
を〈ある〉〈ある〉と繰り返すことで確認しているのだ。昭和四年五月の
「層雲」に発表した一句。そのころ師の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)
に、この句の心境を裏書きするかのハガキを出しているので引用してみよう。
「めつきりあたゝかくなりました。私はぶらぶら歩いてこゝまで来ましたが、
憂鬱なるばかりです、とにかく、もう一度談合して、今生の最後の道に入り
たいと念じてをります。山の中を歩いてさへをれば、そして水を味うてさへ
をれば、私は幸福であります(そして同時に周囲も幸福でありませう、さう
考へてゐなければ、こんな我儘な生き方が出来るものではありません)。」
別れた妻と改めて話し合い、自分の真意を伝えたい、という内容の文面で
ある。が、独り善がりは否めない。思いつくのはギリシャ神話に出てくる美
 少年ナルキッソス。泉の水面に映る自分の容姿に恋いこがれて死に、ナル
キッソス(スイセン)の花と化した。ナルシズム、自己陶酔の語はこれに由
来するが、掲出の「水に影ある」もかなり自分に溺れていないか。影は水、
鏡などに映った物の形、映像の意。山頭火は捨身懸命(しゃしんけんめい)
の旅の途上に、水を飲もうとしたのだろう。
  岩かげまさしく水が湧いてゐる
  こんなにうまい水があふれてゐる
  水音といつしよに里へ下りて来た
 うれしいことに水だけは、おいしい水が至るところにあふれていた。昭和
初期の日本の山河だ。山頭火はことに水のうまさ、ありがたさは何物にも代
えがたい、と強調する。二日酔いのあとに飲む水のうまさもまた格別。そん
なある日、水に映った自分の姿をまじまじと見たのかもしれない。
美少年ナルキッソスではないが、当時の山頭火にはかなり思いつめたもの
があった。旅人とはかくあるものという観念上の姿があって、それを水面に
映る自分の姿に重ね合わせようとしていたのではないか。としても、七七音
の十四文字が美しい調べとなって、山頭火のロマンをかきたてるところに魅
せられる。

(出典:山頭火文庫 村上 護 著『山頭火 名句鑑賞』/春陽堂書店刊)

植田 莫(うえだ・ばく)
1946年生まれ。画家。札幌在住、莫工房主宰。東京・大阪でグラフィックデザイナーとしてすごすが、良寛の心と山頭火の感性に憧れて画家に転身する。油絵で画家の道を歩むが染料との出会いで、その発色の面白さ、透明感の美しさに魅せられて以後天竺木綿の生地や和紙に、染料を刷毛染め、筆書きし、顔彩で細部を描き加える独自の絵画で個展活動をしている。
植田 莫HP:http://www.baku.cc/


この記事を書いた人
春陽堂書店編集部
「もっと知的に もっと自由に」をコンセプトに、
春陽堂書店ならではの視点で情報を発信してまいります。