竹久夢二美術館 学芸員 石川桂子

大正期に春陽堂から刊行された文芸雑誌『中央文学』に、夢二は表紙絵や挿絵を手掛け画家として関わるだけでなく、文筆家としてエッセイや詩も発表しました。今回は寄稿した文章の一部を紹介します。
谷崎潤一郎氏の印象
――戯談(じやうだん)でせう。僕に谷崎(たにざき)氏の印象を訊くなんて。あの人の作品も少しは読んでいるが人としての谷崎氏は殆(ほとん)ど知らないと言つて好(い)い。たゞある下宿屋で同宿人として二三度花カルタをして馴染(なじみ)がある位(くら)ひのものだ。(「谷崎潤一郎氏の印象」より)

 上記の書き出しではじまるエッセイは、大正9(1920)年6月号「現代作家号」【図①】に収録されました。誌面では「作と印象」という特集ページがあり、夢二は表題のエッセイを寄稿、他には芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)「久米正雄(くめ・まさお)氏の印象」、徳田秋声(とくだ・しゅうせい)「最近の正宗白鳥(まさむね・はくちょう)君」等計12編が掲載されました。

①『中央文学』六月号 現代作家号表紙 大正9(1920)年

 さて、文章に記された「ある下宿屋」というのは〈菊富士ホテル〉【図②】を指します。ここに夢二は大正7(1918)年11月から約2年半逗留し、谷崎は大正8、9(1919~1920)年にかけて、断続的に滞在していました。

 二人の間に深い交流はなく、夢二の文章も全体で570字程度の短いものでしたが、意外なつながりに編集部が気付いて寄稿を依頼したのではと推察されます。ところで夢二は谷崎作品を「少しは読んでいる」と記しましたが、装幀を1冊手掛けています。装幀した『お才と巳之介』【図③】は、大正4(1915)年新潮社から刊行されました。

②自画自伝小説『出帆』の挿絵に描かれた菊富士ホテル
昭和2(1927)年 ※描かれている女性は、モデル・お葉

③谷崎潤一郎・著、竹久夢二・装幀『お才と巳之介』
初版:大正4(1915)年

ある画家の手記より
苦しい時にも嬉しい時にも人はその恋の経験を他人に話すことを好むものだが、決して経験をそのまゝには話さないものだ、ずつとあつさりか、ずつと誇張してか―(「ある画家の手記より」より)

 大正9(1920)年9月号は「恋愛文学研究号」【図④】と題し、国内外の文学作品に表れた恋愛及び登場する女性について、多くの作家よりバラエティに富んだ文章が寄せられました【図⑤】。本号で夢二は「ある画家の手記より」と題して、恋愛に関する言葉を9編書き表しました。読み進めていくと「ある画家」というのは紛れもなく夢二で、他の作家と異なり自身の恋愛経験から生まれた言葉を赤裸々に綴りましたが、その内容からは、恋多き画家の素顔を知ることができます。

④『中央文学』九月号 恋愛文学研究号 表紙 大正9(1920)年

⑤恋愛文学研究号 目次 大正9(1920)年

さすらひ
「恋のなやみに なにがよき 忘るゝぞよき」
西の国の詩人(うたびと)は かく言ひき。
われもかく おもひつゝ 緑の野を ゆきゆけば
青空の 果しらず 寂しさかぎりなし。
山の端に 月さす宵は 身にそふ影の おきわすれたる
心のごとく なじらひがちにしたがへる。
忘るゝを つとめのごとく 旅ゆくを なりはひに 
われぞさまよへる 猶太人なり。

⑥『中央文学』九月号 表紙 大正10(1921)年    ⑦さすらひ 大正10(1921)年

「さすらひ」【図⑦】は、自身の挿絵と共に大正10(1921)年9月号【図⑥】で発表されました。七五調で綴られた律動的な詩からは、生涯に数多くの旅をした夢二の心境が読み取れます。夢二にとって旅は、過去の記憶を捨てるために必然の行為であり、決まった住居を持たず土地から土地へと渡り歩いていた猶太(ユダヤ)人に自分を投影しています。ところで竹久不二彦(夢二次男)は、夢二が「俺にはユダヤ人の血が流れている」とよく言い、「ユダヤ人が好きであったことは、間違いないようである」(竹久不二彦「ベルリンの夢二」より 『本の手帖』1962年7月号)と後年回想しています。

 詩に付けられた挿絵と、掲載号の表紙絵に描かれた男性に眼を向けてみると、それは夢二自身の姿であろうと思われます。

日記のつけ方 
一、日記は必要を感ずる人には必要で、さうでない人には負担です。
二、私はつける日もつけない日もあります。
三、写生帖ともつかず、ノートともつかぬものに、絵でも、詩でも、其他のものでも書きつけておきます。
四、それがある日の日記にもなればまたある人との、またある事の記述にもなります。まへにはWho Wher When については記入しなかつたが、此頃は書入れるやうにしてゐます、それが私の生活の感覚だから。
五、今までは丸善のAGENDAというノートを使っていましたが、今年は春陽堂から「絵日記」を買つてつけるつもりです。      (「日記のつけ方」より竹久夢二回答)

 大正9(1920)年新年号では、文壇諸氏に「日記のつけ方」というアンケートを実施し、下記の5つの質問を実施しました。
一、文学青年には日記が必要でせうか。
二、貴下は日記をおつけになりますか。
三、参考までに日記のつけ方を示して下さい。
四、日記をつければ効果がありますか。
五、何店発行の日記を御使用になつてゐます。

 これらの問に対し芥川龍之介や与謝野晶子など18人が回答、その一人に夢二も含まれており、冒頭の答えが掲載されました。創作だけでなく、時にはこのようなアンケート企画ページも設けられました。

 さて夢二は最後に「今年は春陽堂から「絵日記」を買つてつける」と記していますが、実は春陽堂が出版した日記帳「絵日記」【図⑧】の考案と編集に、夢二が携わったという経緯がありました。春陽堂の出版物を販売促進するために、このアンケートが企画されたようです。ところで「絵日記」は竹久夢二美術館では所蔵しておらず、筆者未見の資料ゆえ、どんな体裁かとても気になります。

⑧『絵日記』広告 大正10(1921)年

 エッセイと詩を中心に夢二の文章を紹介してきましたが、その多くは自身の経験を綴り、時には画家という立場を生かして自作の挿絵で文章を飾ることもありました。文壇や詩壇に属した作家とは異なり、自由な立場で類を見ない文筆家として独自色を発揮した夢二は、『中央文学』において目を見張る存在だったと思われます。

(写真と図は、すべて竹久夢二美術館所蔵の作品です)

夢二と春陽堂 第4回へ続く
この記事を書いた人
石川 桂子(いしかわ・けいこ)
1967年、東京都生まれ。竹久夢二美術館学芸員。編書に『大正ロマン手帖──ノスタルジック&モダンの世界』『竹久夢二♡かわいい手帖──大正ロマンの乙女ワールド』(共に河出書房新社)、『竹久夢二《デザイン》──モダンガールの宝箱』(講談社)、岩波文庫『竹久夢二詩画集』(岩波書店)など。