365日かけて占拠された家
カルロス・フエンテスの「アウラ」という南米の幻想的な小説がある。
『雨月物語』にテーマをとった小説で(『雨月物語』は溝口健二を通して南米に密輸された)、特徴的なのが、ずっと「君」という二人称で物語が進められることだ。
君はなになにした、君はなになにする、君はなになにするだろう、と小説はすすんでゆく。読んでいるわたしに話しかけるように。読んでいるわたしのあたかもそれが「今」であるかのように。
歴史家のわたしは歴史の調査のためにおもむいた家から出られなくなってしまう。アウラという女性のとりこになり、この家からでられない。君はおびえる。
小説は、読む、だけでなく、呼びかける、という機能もある。それをわたしはフエンテスの「アウラ」から学んだ。
そういえばあのひともたえず呼びかけるひとだった。おまえのいまを確認しろという。希望をもち、絶望をもてという。これはあなたの話だ、と。
「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。」(太宰治『津軽』)