なんかげつもまえにきた敗北力がやっときた
負けること、についてずっとかんがえている。負けてきた人生だからでもなくて(負けてはきたんだけれどそれはそれでべつにいい)、負けることってなんかふしぎなちからがあるなあ、とおもうから。
たとえば、なにかの感想を書く、って負けいくさに似ている。だってどんな感想を書いたってぜったい作品には勝てないでしょう? だからはじめから負けいくさのなかで戦うようなものだ。それでもひとは感想を書こうとする。負けながら。負けのなかでなにかを感じながら。ふしぎだなあ。
哲学者の鶴見俊輔さんはずっと負けることについてかんがえたひとだ。日本が戦争に負けたときいったいなにをかんがえたんだろう、なにを記憶したんだろう、ひとは負ける過程でどんなことをかんがえ、どういきていくんだろう。そういうことをかんがえていた。
たぶん精神分析も負けることについてかんがえる学問だろう。わたしたちは赤ちゃんのとき万能だった。なんでもできるとおもっていた。泣けばなんでももらうことができた。愛だってもらえた。でもだんだんことばを獲得するにつれて、負けることをしってきた。手に入らないものをしってきた。愛するひとから愛されえないこともわかってきた。わたしはひとりなんだ、ということを、わかってきた。
でも、いきていく。
どんなに負けいくさでも、負けいくさの名前のように、負けのなかでたたかっていく。そこにはふしぎなちからがある。それはなんだろ。
きょうごめんいけないんだ、といいながら、たどりつくまで、いこうとしている。どこに。どこかに。