見えてきた塵を見ながら言うことば
イランのファルハディの映画をみてびっくりした。チェーホフ劇のような夫婦のドラマなのだ。だからそれはイランじゃなくて日本で起こっていてもぜんぜん問題ない。イランへのエクスキューズなしに、夫婦の愛と対話をめぐるドラマがはじまる。そこでは夫婦がこわれたりやり直したりもとにもどれないほど傷ついたりしている。夫婦の周囲もこわれていく。愛が、暴力が、ことばが、喪失が、再生が、絆が、孤独が、ゆきかってゆく。ふたりになると魂はうろうろしはじめる。どこの国でもそうだ。漱石も乱歩も春樹もそれを描いた。えいえんのもんだいとしての、ふたり。