旅をすること、書くということ[後編]

2020年11月20日 鎌倉にて収録
『もどろき・イカロスの森 ふたつの旅の話』刊行記念インタビューの後編をお届けします。『もどろき』で描かれる父・北沢恒彦さんについて、『思想の科学』で長年ともに仕事をしてきた鶴見俊輔さんについて、語っていただきました。
父・北沢恒彦と鶴見俊輔
── 『もどろき』を書き上げた10年後に、お父さんについてまとめた『北沢恒彦とは何者だったか?』を刊行しています。この本はどういう経緯でまとめたのでしょうか?
黒川 僕の父は無名の人だけど、市井に生きながらの学問というものを考えたところなどでは、面白いところがあったと思う。父の没後に『もどろき』を書いて、そのあと、親父の遺稿集『隠された地図』という本を編集する上で、ぼくが年譜を作ったんですね。そのとき、父にとっての実父母や養家のこととか、あるいは、親父自身の高校生時代の逮捕歴とか、調べる機会があった。朝鮮戦争下、高校生の父は反戦運動に加わって、共産党の指導のもとに火炎瓶を投げたりして、捕まる。黙秘したまま、拘置所に2カ月ほど入っていた。それで起訴されて、裁判になった、そういう記録ですね。起訴状とか、判決文。知り合いの弁護士事務所を通して、京都地検にかけあうと、残っているものを出してもらえた。ただし、コピーは許可できないとか言われて、母や妹までいっしょに京都地検に出向いて、そういう書類を書き写してきたりした。
 『北沢恒彦とは何者だったか?』は、こうした年譜に肉付けをするように作った証言集なんです。父の幼時から晩年まで、それぞれの時期を知る関係者に、僕がインタビューしている。僕が知っている親父は30代以降だから、彼が子どもだったときのことは、それを知っている親戚に聞くしかない。聞いておかないと、いずれ彼らも亡くなってしまう。いまのうちなら、父が子どもだった頃から、死ぬまでのことを、さまざまな証言だけからまとめられる、とね。そういう記録を残しておくと、いまでは「北沢恒彦」がWikipediaにも出てきたりする。

『北沢恒彦とは何者だったか?』
(編集グループSURE編、2011年)

 鶴見俊輔さん、加藤典洋さんとの共著で『日米交換船』という本も出したけど、あれを出す前は、あの船を何と呼ぶかっていうことさえ、はっきりしなかった。英語だとRepatriation Ships って言ったりもする。「送還船」ですね。より正しくは Exchange Ships だ。でも、そのニュアンスをぴたっと汲み取る訳語がなかった。太平洋戦争下、これで送還されてきた鶴見さん本人も「捕虜交換船」って言ったりしていたけれど、鶴見さんは留学生であって捕虜だったわけではない。どうも、うまく表現できなかったんです。そこで、僕と加藤典洋さんとに話をする形なら、これを記録することもできるんじゃないかって、鶴見さんに提案したんだ。そうやってまとめた本です。いまはWikipediaでも、長大な「日米交換船」の説明が出てくるけど、多くはこの本の情報を基に書かれている。歴史というものは、1回記録が作られると、それがあたかも前からあったことのようになる。
── 『もどろき』と『北沢恒彦とは何者だったか?』を一緒に読むと、フィクションと現実の重なり具合が見えてきて面白かったです。
黒川 事実かフィクションかっていうのは、別にどっちでもいいようなことだけどね。世界にはいろんな人たちが生きている。そのことについて、オリジナリティーなんてものは問いようがないわけで。小説だって、長い時間のあいだにいろんなことがなされてきていて、だから20世紀以後の文学は、もうブリコラージュがオリジナリティーなんだって、加藤典洋さんは言っていたな。
「犬の耳」について
── 今度の本には、「犬の耳」、旧題「新世紀」も収録しています。
黒川 拙いところもあるけど、こうやって、いくらか手を入れてみる機会を持てたことは良かったかな。タイトルも、内容に即せば、やっぱり「犬の耳」だよね。発表したときは、そのことへの照れというか、当時の風潮へのアイロニーを込めるつもりで、「新世紀」にしたんだろうね。実際に書いたのが、新世紀のちょっと手前だったから。ただ、床屋での散髪みたいなもので、ちょっと時間が経ったところで、無駄なところを刈るとか、読みにくいところをちょっと直すとか、そういうトリミングをやれる機会を持てたのは、作者としてはいい機会だった。
── いま編集を進めている『明るい夜・かもめの日』には、同時期のこれも単行本未収録の「バーミリオン」も収録予定です。
黒川 「バーミリオン」がいいって言ってくれた人は、ほんの少しだけれども、当時いた。でも、「犬の耳」もそうだけれども、あんまり小説というものに自信が持てずに、そのままにしちゃったんだね。
 この作品も変な視点なのだけど、そこでの話者がどこからしゃべっているのかとか、まだあまり突き詰めては考えられていない。だから、帳尻が合っていないとこがあるかもしれない。「犬の耳」にも、詰めの弱さがあった。だから、そういうところは、文として、ひとつのセンテンスとして、直したくなるところだね。
「旅する少年」
── 20代の著作ですが、黒川さんは『先端・論』という本で、こんなことを言っています。

僕たちは、日常の暮らしの実に多くの時間を、旅──つまり、移動・・越境・・──への衝動に脅やかされながら生きている。そのような衝動にさらされ続けながら、それをはぐらかし、こらえ、あるいは諦めることによって、はじめて僕たちの「定住」というものも成立する。
この文章を目にして、黒川さんの著作に通底する根本のところはぶれていないというか、変わっていないのだなと思いました。現在春陽堂の「Web新小説」で連載をしている「旅する少年」も、少年時代の黒川さんの「旅」をめぐるものです。
黒川 「旅する少年」は、自分の知らない世界に入っていくというか、そういう話ですね。子どもが思春期にわたっていく時期に、無我夢中でギリギリのことをやっている。旅をするというのは、そういうことでしょう。
 『イカロスの森』を書いたころは、すでに『〈外地〉の日本語文学選』という本も作っていたから、サハリンに関心は持っていた。ただ、普通は日本の植民地だった南樺太に行くけど、少年時代の旅の習性で、そこに「50度線」という旧国境があると分かると、それよりさらに北はどうなっているのかと、そちらのほうが気になっちゃう。これはもう、旅が目先の都合を追い抜いちゃうところだよね。
── 「世界の果てまで行きたい」という願望ですね。
黒川 自分の目で確かめてみたいっていうか、そこだろうね。
20代の自分が何を書いたかなんて、もう覚えていませんよ。ただ、人間はせいぜい数十年しか生きないのだから、そんなに大きくは変われないんじゃないかという気がする。僕の体のなかに、地磁気というか、羅針盤の針がさす方向感覚のようなものだけは残っていて、これを頼りに自分は動いているのではないかと。
── 連載の続きも楽しみにしています。今日はありがとうござました。

『先端・論』(筑摩書房、1989年)と、『日米交換船』(新潮社、2006年)

(了)

『もどろき・イカロスの森 ふたつの旅の話』(春陽堂書店)黒川 創・著
池澤夏樹さん推薦!
芥川賞候補にもなったふたつの「旅」をめぐる作品と、 初の書籍掲載となる小説「犬の耳」、書き下ろしの解説を所収。
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この記事を書いた人
黒川創(くろかわ・そう)
作家。1961年京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。1999年、初の小説『若冲の目』刊行。2008年『かもめの日』で読売文学賞、13年刊『国境[完全版]』で伊藤整文学賞(評論部門)、14年刊『京都』で毎日出版文化賞、18年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。近著に『暗い林を抜けて』がある。現在、「Web新小説」にて「旅する少年」連載中。。