【番外編】 正月の酒
有名なチャールズ・ラムの『エリア随筆』に「除夜」という一篇がある。
年越しの感懐をつづったというと平穏無事で、歳時記的で、毒にも薬にもならない感じがするが、そうでない。ラムが書いているのはもっと深刻な内容だ。
新年を告げる鐘の音を聞くと、彼の心には過ぎた一年のあらゆる光景が蘇る。それだけでなく過去のすべてが思い出されて、楽しかったことも辛かったことも、もう二度と還らないこと──そして自分自身もいずれ去って還らぬ身であることを痛感する。
死んだあとの世界は一体どんなであろう?
人は果たして霊魂になっても笑うことができるのだろうか? 自分が何よりも好きなのは読書だが、あの世にも本を読む幸せはあるだろうか? 友情や友の笑顔はあるのだろうか?
文章は暗鬱凄愴な調子に沈んでゆくが、やがてラムは新年を祝う盃を挙げ、昔の歌で景気をつける。チャールズ・コットンという17世紀の詩人の歌だ。
されば迎えむ、新客を
溢るる美酒の杯で。
愉快は常に幸と逢い、
「災禍」をすら和ませる。
「幸福姫」が背向くとも、
我等は腹に酒を詰め、
堪えて待たむ、またの年、
姫が此方をふり向くを。
わたしなども昔は毎年そうやっていた。その頃──わたしがまだ学生で、祖母と原宿の家に暮らしていた1980年代には。
わたしは家であまり酒を飲まない。
だから、酒を買うということも滅多にしなかったが、年末だけは例外で、毎年鳶の頭が注連飾りをつけに来る頃、うきうきしてデパートへ酒を物色に行った。
大学に入ってから二十年くらいの間、大晦日には必ず友達が五、六人──多い時は十人くらい我が家に集まった。それだけいれば、みんなでいろいろな酒を飲める。今年は何にしようかと考えるのが楽しかった。
もちろん、正月だから日本酒が必要だ。美味い辛口としぼりたての濁り酒を買おう。ワインは誰かが提げて来るだろうから、何か珍しいリキュールでも買っておこうか。
老酒も要る。
陶器の壜に入っている加飯酒や善醸酒も良いが、本当は大瓶から柄杓ですくって量り売りするのが一番うまい。
当時、池袋の西武百貨店にあった「北京老舗街」という中国物産展のようなところで、瓶の紹興酒を売っていた。喉越しがじつに良いので、それを買いにわざわざ池袋へ行った。ついでに醤豆腐(豆腐を発酵させたもの)やピータン、それに「雪花啤酒」なども買った。
一度、「金獎白蘭地」という白い陶器の壜に入った中国産ブランデーを試してみたら、うまいにはうまいけれども、ブランデーというよりマールのような香りだった。
各種の酒とつまみを並べ、年越し蕎麦も注文して待っていると、夕方から友達が三々五々やって来る。にぎやかに飲んで騒いで、紅白歌合戦が終わったら、祖母のいる隣の部屋でテレビから流れる除夜の鐘の音を聞く。そして近所の東郷神社へ。
大晦日の東郷神社も、その頃はさほど混んでいなかった。
ここで初詣を済ませて、甘酒をいただいて、表参道の屋台で暦や焼きそばを買って帰って来ると、お客は途中であらかたいなくなっている。
残った一人二人と飲み直すが、それもやがてお開きになり、わたしは片づけを後まわしにして蒲団にもぐる。
元日のお屠蘇はいつも二日酔いの迎え酒だった。
雑煮と昼寝で酔いをさましたあと、することのない三が日の晩に家でチビチビやった酒が、正月の酒の中で一番なつかしく思い出される。
原宿の家では祖母が茶の間にベッドを置き、寝たり起きたりして暮らしていた。
ベッドの隣に炬燵があり、わたしはその炬燵に入り、祖母は足だけあたって、一緒にテレビの正月映画を見た。
素面では見ない。おせちの重箱を台所から持って来て、それをつまみに茶碗酒をやる。正月用に大きな山葵を買ってあるから、少し擂って、そいつで蒲鉾を食べる。それにイクラと柚子を入れた甘塩の塩辛もある。
小腹が減って来たら餅をレンジで焼き、イクラをのせたり、唐墨がある時は唐墨をのせて食べたりした。
祖母はそのうちベッドの上に斜めになって寝てしまうから、起こしてちゃんと寝かせる。わたしはテレビで昔の映画を見ながら、まだまだチビチビ酒だ。
鈴木清順の「陽炎座」をこうして見たことが忘れられない。あれは不思議な映画だったが、酔っ払っていたからそう思ったのかどうか良くわからない。
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文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。
絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)