南條 竹則

第11回 『バナナ』の中華料理【前編】

 思うに、獅子文六が中華料理に関する蘊蓄うんちくをもっとも傾けて書いたのは、『バナナ』という小説だろう。
 この小説は1959(昭和34)年、読売新聞に連載された。主人公は呉天童という裕福な台湾華僑である。
 御存知の通り、台湾には福建系、広東系、客家はっか系などさまざまな文化的背景を持つ住民が暮らしている。呉天童は広東系の台湾人だが、少年時代から東京に暮らし、紀伊子という日本人の妻と龍馬という大学生の息子がいる。「生国の中国料理は勿論のこと、日本料理も懐石料理からウナギ、てんぷら、すし、おでんに至るまで、どんなものでも好きであり、また、フランス料理も、日本式洋食も、トンカツまで大好物」な食いしん坊だ。
 小説には当然食事場面が何回も出て来るが、やはり中華料理のことを書かねば読者の期待を裏切るから、作者はそこにリキを入れている。
 呉天童の中華料理観が詳しく語られるのは、「食補シブー」という章に於いてだ。
 中華料理の真髄は料理店の料理ではなく、飯菜はんさい、すなわち家庭料理にあると呉天童は考えている。といっても素人料理のことではない。富家顕官が自宅で腕の良い料理人に作らせる料理だ。これはもうけを考えず、手間暇も材料も惜しまないから、旨いに決まっている。
 彼はそういうものを食べたくてしようがないが、名料理人を抱えるほどの財産家でもないので、自分自身で台所に立つ。「食補シブー」の章では、「蜜煎火腿メイチイホウタイ」と「ツアフアンタン」(ルビは作者による)の二品を作る。

 天童の今日の料理は、二斤ほどのハムだけを、野菜は何も入れずに、氷砂糖で煮込むものだが、それはすでに、ガス・レンジの土鍋の中で、二時間も前から弱火にかけられている。彼は、時々、鍋の蓋をとって覗き込むが、深紅色の肉塊と、真珠のようなアブラミから、何ともいえない芳香が、湧き上っているので、ウットリと、鼻をうごめかせる。実際をいうと、それで食べたのも、同然なのである。シヤンこそ、中華料理の真髄であると、彼は思ってるが、ことに、この料理は、香を食うようなものである。(『バナナ』ちくま文庫、95頁)
 この時彼は金華ハムを使っているが、雲南ハムが手に入らないので代用品として使うのだ。「火腿はハムであり、雲南産を最佳とする」と語っているが、今日上海あたりの人に言わせれば、断然金華ハムの方が上だろう。雲南ハムを珍重するのは広東系華僑の好みで、こんなところも当時の日本に於ける中華料理事情を感じさせる。
 さて、「蜜煎火腿メイチイホウタイ」が出来上がると、次は「ツアフアンタン」だ。

 皿の上に、乳白色のカプセル状のものが、二十個ほど列んでいる。彼は、それにカタクリ粉を振りかけた。まるで宝石でも扱うように、大切そうに、白い粒をとりあげて、まんべんなくマブしているが、正体をいうと、鶏のキンタマに過ぎない。(同95頁)
 これは美味なだけでなく保養補精の力があるとされる、いかにも中国的な佳肴(かこう)だ。呉はそいつを食べながら紹興酒をチビリチビリと飲み、馴染みのバーの女のことを思い浮かべるが、べつに浮気をするつもりもない。ただ、ささやかな秘密を抱いて気分を若返らせようとする、中年の罪のない御亭主なのだ。
 最近はどうか知らないが、昔は台湾へ行くと屋台で「鳳丹」が食べられた。
 もう三十年も前のこと。筆者の友人O君が、会社の先輩に誘われて台北へ遊びに行った。
 華西街にズラリと並んだ屋台を見た時、中華料理の大好きなO君は飛び上がって喜んだ。とにかく右も左も珍しいものばかり。しかも、値段が噓のように安い(昔は円が強かったのだ)。あちらで蛇のスープを、こちらで家鴨を、といった具合に食べ倒したが、一軒だけよそに較べて勘定の高価たかい店があった。
 O君はボラれたのだと思い、当時行きつけだった小岩の台湾料理屋・楊州飯店のおじさんに言うと、
「台湾の人はボッたりしないと思うヨ」
 とおじさんは首を傾げる。
 そこでO君に何を食べたのか訊いたら、鶏の睾丸の炒めを食べたという。睾丸は雄鶏一羽から少ししか取れない。それを一皿分炒めるのだから、値段はけして安くないとおじさんは言う。
O君はそれで納得したが、補精の効能については何も知らなかった。食い気だけの純情青年であった。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)