せきしろ

#5
想像から物語を展開する「妄想文学の鬼才」として、たとえる技術や発想力に定評のあるせきしろさん。この連載ではせきしろさんが、尾崎放哉の自由律俳句を毎回ピックアップし、その俳句から着想を得たエッセイを書き綴っていく(隔週更新)。第5回目は次の2本。

ぶつりと鼻緒が切れた暗*¹の中なる
  大正一三年 『層雲』一二月号 眼耳鼻下(三七句)
 *¹後の収録(俳句集『大空』)で句形に異同があり。「闇」の字が使用されている。
壁の新聞の女はいつも泣いて居る
  大正一四年 『層雲』一一月号 足のうら(三六句)
放哉の句から生まれる新たな物語。あなたなら何を想像しますか? 

 ぶつりと鼻緒が切れた暗の中なる
電車に乗った時、たとえば進行方向の左側の席にばかり人が座っていたら電車が傾いてしまいそうで不安になる。特に羽田空港行きのモノレールはいつも思う。実際に傾くなんてことはないのだろうが、少しでもバランスを取ろうと私は進行方向右側の席に座り、万が一傾いた時に咄嗟にどういう行動をとるかを考え始める。結構アクロバティックな動きをする自分を想像し、その世界に没頭して、気づくと興奮している自分に気づく。
不安になるといえばマンホールもそうだ。マンホールの上を歩いた時、蓋ごと落下してしまったらどうしようと考え、可能な限り避けて歩いてしまう。また信号待ちなどでマンホールの上に立っている時も落下してしまうのではないかと不安になる。
とはいえ、いちいちそんなことを心配していたら疲れてしまうので、「マンホールの上に立ってもまったく平気だ」と自分の脳に深く刻み込んでしまおうとあえてマンホールの上で足踏みをしてみたり軽くジャンプしてみたりするのだが、「今の動きのせいで何かがずれてしまったばかりに……」みたいなことを考えてしまい、「自分は良いが次に立った人が……」まで考えてしまって結局余計に不安になる。その後、自分ではない人が落ちそうになるのを機敏な動きで助けるところを想像して、また興奮している自分に気づく。
マンホールに関する不安はまだあって、中にいる誰かが蓋を開けて外に出ようとしているのに、私が上に乗っているから出られなくなって困っているのではないかと考えた時だ。たまにマンホールの上にちょうどタイヤが乗るように停車している車を見ると、もう絶望しかないように感じてしまう。「そこに停めたら駄目だよ!」と思うがそんなこと誰にも言えない。やがていつものようにそこから自分が出られなくなって、四苦八苦して、それでも諦めずに機転を利かせて脱出することを想像して、また興奮するのだ。


 壁の新聞の女はいつも泣いて居る
部屋の壁に新聞紙が貼られている光景が私の古い記憶の中にある。
今はすっかり見なくなったが、私がまだ幼かった昭和の頃はよく見たもので、たしか壁の補修や保護の意味があったはずだ。またすきま風を防ぐために使われている時もあった。
祖父の家の土壁にも新聞紙は貼られていて、その壁を何度も何度も見たはずなのに、新聞の記事は覚えていない。子どもにとって新聞は興味の対象ではなかったので仕方ないことかもしれない。
今見るときっと興味深い記事や広告、キャッチコピーなんかがあったことだろう。現代では信じられない言葉や商品が掲載されていたはずだ。祖父の家はもうかなり前に取り壊されているから、もう新聞の記事を確かめることはできないが、もしもまだ残っていたとしたならばそれはちょっとしたタイムカプセルだったはずだ。
もう誰も住んでいない建物、いわゆる廃墟に行くと壁のカレンダーが昔のままであることがあって、これもタイムカプセルである。建物の周りを歩けば雑誌を見つけることも多く、これまたタイムカプセルを感じさせる時もあれば、時には新しい雑誌もある。最近訪れた誰かが捨てていったものだろう。風景に似つかわしくなくて私はガッカリするが、それもいつか古くなることに気づく。10年後に訪れた人がこの雑誌を見つけたならば懐かしいと思うことだろう。
かつて飲食店だった場合は壁にはビールのポスターが貼ってあることが多く、写っているタレントから年代を推し量ることができる。名前がすぐ出てくる人もいればなかなか思い出せない人もいるし、まったく知らない人もいるが、いくら色褪せていてもいつまでも笑顔のままである。そして本当に時間が止まっているかのようにいつも笑っていて、静かなのだ。

『放哉の本を読まずに孤独』(春陽堂書店)せきしろ・著
あるひとつの俳句から生まれる新しい物語──。
妄想文学の鬼才が孤高の俳人・尾崎放哉の自由律俳句から着想を得た散文と俳句。
絶妙のゆるさ、あるようなないような緊張感。そのふたつを繋ぎ止めるリアリティ。これは、エッセイ、写真、俳句による三位一体の新ジャンルだ。
──金原瑞人(翻訳家)

プロフィール
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
<尾崎放哉 関連書籍>

『句集(放哉文庫)』

『随筆・書簡(放哉文庫)』

『放哉評伝(放哉文庫)』