第25回:久保田万太郎『寂しければ』悪くない「出来心」

清泉女子大学教授 今野真二
 今回は大正15(1926)年11月3日に刊行された久保田万太郎『寂しければ』を採りあげてみよう。筆者が所持している本は同年11月15日に刊行された第3版であるので、2週間も経たないうちに刷りを重ねていることがわかる。

【図1】

【図1】は外函で、装幀は小村雪岱。小村雪岱は、春陽堂から出版された多くの本の装幀をてがけている。泉鏡花の装幀がよく知られているが、久保田万太郎のものも少なくない。大正4(1915)年に千章館から出版された『下町情話』、大正5(1916)年に鈴木書店から出版された『薄雪双紙うすゆきぞうし』は小村雪岱が装幀を担当している。【図2】は表紙で、第14回の里見弴『山手暮色』(1929年、春陽堂)や長田幹彦『夜の鳥』(1920年、春陽堂)の表紙とも通う。【図3】は扉であるが、「寂しければ」の文字がまさしく寂しい。外函の目次には「かれについてのおもひで」とあるが、「本文」では「彼についてのおもひで」となっている。

【図2】

【図3】

 冒頭の「寂しければ」は次のように始まる。

 二十一日は死んだ家内の命日にあたります。─幸ひ日曜でもあり、天気も好かつたので、清一をつれて谷中まで寺まゐりに出かけました。
 かへりに、ぶらぶら芋坂を下りて、馴染の深い道を根岸のはうへ切れました。
「清ちやん、お前、『笹の雪』を知つておいでだつたか?」
「いいえ。」
「まだ知らなかつた?」
「えゝ。」
「ぢやァ、今日は『笹の雪』へつれて行かう。」
 音無川についてあるきながら清一にわたしはいひました。たまにわたしと一しよに出て、どこへでもよつて、外でなにか喰べてかへるのを、どんなことでゝもあるやうに清一は喜びました。─ですから、わたしも、つとめてさういふ機会をこしらへるやうにしました。─その日もうちを出るときから、今日は、かへりは、金田で鶏肉にしようか、それとも前川へ行つてうなぎを喰べさせようか。─途中いろいろ思案をしました。
 そこまで来て、ふつと、「笹の雪」を思ひつきました。─子供にはいつそ珍しいかも知れない。―さう思つてわたしは、出来ごゝろでそれに決めました。
 漢字列「機会」「鶏肉」にはそれぞれ「をり」「とり」と振仮名が施されている。浅草の老舗である前川も金田も、根岸の笹乃雪も、現在もあるが、上に示した16行が、現代日本語母語話者(という表現はいささかおおぎょうかもしれないが、つまりは現代人)にとっては、すでにやや「距離」のあるものになっているかもしれない、と感じた。
 意味がわからないということはもちろんないだろう。難しい語が使われているわけでもない。しかし、例えば「どんなことでゝもあるやうに」は現代日本語の表現に案外置き換えにくいと思うし、「子供にはいつそ珍しい」はそれほどわかりにくくはないだろうが、では自分が使う表現か、と問われれば、「使わない」と答える人がほとんどであろう。
 さらに気になったのは「出来ごゝろ」である。『日本国語大辞典』第2版は「できごころ」を「あらかじめ計画していたのではなく、その場でふと起こした考え。もののはずみでふらふらと起こった考え。その結果が悪い場合、他に迷惑をかける場合にいう。できき」と説明している。「結果が悪い場合、他に迷惑をかけ」た場合に「ほんの出来心でやりました」という。しかし久保田万太郎の「デキゴコロ」は「清一」を「笹の雪」に連れて行くということをとっさに思いついたというような意味のはずで、「悪い場合」ではない。
 こういう使い方がかつてはあって、それがだんだんと「悪い場合」のみに限定されていったのか、それとも久保田万太郎の使い方がそもそも標準的ではなかったのか、あるいは久保田万太郎がこの箇所で、わざと非標準的な使い方をしたのか、可能性はいろいろある。久保田万太郎は明治22(1889)年に浅草に生まれて昭和38(1963)年に亡くなっている。「江戸っ子」であること、俳人でもあることは、その表現にかかわってくるであろう。
 例えば、菊池寛の「海の中にて」には「女の行動は、極端に無謀であつた。彼女は自分の家を脱けて停車場へ来た為に、着換一枚持つて居なかつた。実際彼女が、東京迄の切符を買ふ気になつたのは、ホンの停車場での、出来心であつたらしかつた」という行りがある。この「出来心」は〈思いつき〉という語義であろう。菊池寛は明治21(1888)年に香川県に生まれ、昭和23(1948)年に亡くなっている。生まれは香川県であるので、久保田万太郎のように、「江戸っ子」ではないが、明治43(1910)年に東京大学教養学部の前身となる第一高等学校に入学している。
 あるいは三木清(1897~1945)の『人生論ノート』には「旅に出ると、誰でも出来心になり易いものであり、気紛れになりがちである。人の出来心を利用しようとする者には、その人を旅に連れ出すのが手近かな方法である。旅は人を多かれ少かれ冒険的にする、しかしこの冒険と雖も出来心であり、気紛れであるであろう。旅における漂泊の感情がそのような出来心の根柢にある」とある。これもまた「悪い場合」に限定されていない「デキゴコロ」であろう。
 明治に生まれ、大正期から昭和期にかけて活動を展開した作家の日本語はよく観察する必要がありそうだ。
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』(春陽堂ライブラリー3)今野真二・著
[短いことばで、「伝えたいこと」は表現できる]
曖昧な「ふわふわ言葉」では、相手に正確な情報を伝えることはできない。「ことがら」・「感情」という「情報」を伝えるために、言葉を整え、思考を整える術を学ぶ。

この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。