南條 竹則
第26回 どぶがめ考 後編
 日本にはスッポン以外の亀類を食べる習慣があまりない。前回御覧に入れた井伏鱒二の文章はその例外を示す貴重な証言だが、中国や香港では事情が違う。
 たとえば、香港の街角で見かける「れいこう」。「亀ゼリー」などと呼ばれるあのモノを食べた方は多いだろう。あれは材料に亀を使った一種の薬膳点心である。近頃はどうか知らないが、かつて中国では高級料理に亀を使うことが珍しくなかった。三十年ほど前にわたしが杭州で満漢全席の宴を開いた時、「亀鶴同春」というお目出度い名前の料理が出て来たけれど、これは亀と鶏と高麗人参のスープだった。
 西洋でもフランス料理に海亀のスープがある。いや、あったというべきであって、海亀保護のために献立から消えて久しいが、年輩の方は御記憶だろう。透きとおった綺麗なスープで、べつに亀の肉が入っているわけではない。海亀のエッセンスを味わう洗練された料理である。
 これをいとも見事に小道具として用いているのが、デンマークの作家イサク・ディーネセン(本名はカレン・ブリクセン)の「バベットの晩餐会」という短篇だ。
 時は19世紀の後半。ノルウェーのフィヨルドの山麓にベアレヴォーという小さな町がある。そこに牧師の二人の娘マチーヌとフィリッパが住んでいて、バベットというフランス人の家政婦を置いている。
 バベットはパリのレストラン「カフェ・アングレ」の料理人だったが、パリ・コミューンを支持したため、亡命して来たのだ。ベアレヴォーの町は貧しく、たいていの町人まちびとは贅沢な御馳走とはどういうものか知らないし、この世の快楽を否定するプロテスタントの教えで、美食は罪悪だと思っている。だから、バベットは非凡な技倆を持ちながら、毎日鱈の干物の料理と麦酒エールとパンのスープを作っている。
 その彼女が友人からもらったフランスのくじで一万フランを当てた。
 バベットは自分の支払いで、本物のフランス料理のディナーを作らせて欲しいと牧師の娘たちに頼む。そして一夜見事な料理で人々を幸福にするのだ。
 献立には海亀のスープも入っていた。
 姉娘マチーヌはその材料を目撃する。
 ランプの明かりで見ると、それは黒ずんだ緑の石のように思えた。ところが台所の床に置かれると、突然その石から蛇のような頭がぬっと現われて、その頭を左右に動かした。マチーヌは亀の絵を見たことがあったし、それに子供のころ、小さな亀を飼ったこともあった。だがこの亀はとてつもなく大きくて、恐ろしくてつついてみれるような代物ではなかった。マチーヌはあとずさりすると、押し黙って台所から出ていった。(イサク・ディーネセン著 桝田啓介訳『バベットの晩餐会』ちくま文庫 50-51頁)
 彼女は「自分と妹が、よりによって父の百年祭に、父の家を魔女の饗宴に明け渡そうとしているように感じ」、バベットが人々を毒殺する準備をしている夢を見る。
 しかし、出て来たものは先に言ったようなスープだから、娘たちは海亀を食べたことに気がつかない。
 思い返してみると、テーブルで自分たちの前に出された料理をどれひとつ思い出すこともできなかった。遠く離れたところから、とうの昔に過ぎ去った時の中から現われてくるように、あの海亀の姿がマチーヌの頭に浮かんできた。だがあの海亀が、とうとうテーブルに現われなかったのは確かだった。あれはただの悪夢にすぎなかったのだ。(同85頁)
 海亀のスープは18世紀以来ヨーロッパで珍重されたが、貴重品なのでおいそれとは口に入らなかった。
 そこで発明されたのが、イギリス料理「ニセウミガメのスープ」だった。これは子牛の頭の肉を葡萄酒などで煮込んだものだ。食感が海亀の肉に似ているというが、フランス料理のスープとはまったく趣が異なり、むしろビーフシチューに近い。中国では熊の掌の代用品として牛の蹄などで「賽熊掌サイシュンジャン」というものをつくるが、それを思い出させる。
 このニセウミガメ(Mock Turtle)を生き物として登場させた物語が、御存知ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」である。ジョン・テニエルが描いた挿絵のニセウミガメは、亀の甲羅に牛の頭と蹄と尻尾を持っているから、ちょっと見てごらんなさい。
 そういえば昔、武漢の湖北大学で催された東亜符号学会に参加した時のことだ。
 学会が終わった後、参加した内外の学者がバス二台に分乗して、一泊二日の観光旅行に行った。出発した日、荊州けいしゅうへ行く途中の町で昼食をとる予定だった。昼食といっても奮発した宴会で、土地の名物だという亀料理を食べるはずだった。
 ところが、途中でバスがはぐれてしまい、一台は道に迷った。携帯電話などのない時代だから連絡が取れない。昼の宴会は中止になった。
 予約したレストランでは、取り寄せた亀の代金を払ってくれ、そのかわり現物を持ってゆけ、という。亀はまだ調理前で生きていた。
 幹事さんは仕方なく、翌日武漢へ帰るまで、海亀のように大きい亀を背中にしょって歩いた。まるでさかさ浦島である。そのあと、彼は日本人一行から「カメさん」と呼ばれていたが、あの大亀はどうしたのだろうと思い出すたびに気になる。 


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)