南條 竹則
第27回前編 百鬼園の「馬鹿鍋」
 馬肉というと、すぐに馬刺しを思う人が多いかもしれないが、わたしはどういうものか刺身よりも鍋が好きで、牛鍋よりも好きなくらいだ。
 その馬鍋のことを内田百閒が随筆に書いている。お読みになった方も多いだろう。
 食いしん坊の百鬼園先生は牛鍋や猪鍋の話をいかにも美味そうに語るが、馬肉も嫌いではなかった。好きというほどではなく、無気味と思わないだけのことだったが、ある年の暮、家でお客をもてなすのに馬鍋を用意した。
 これは戦前、昭和十四年の話であるが、馬肉というと二の足を踏む人が当時も多かったようだ。馬をどっさり用意しても、たくさん残されてしまうと困る。それで、百閒はあらかじめ案内状に断り書きをして、今度は馬を出すけれども、食べるかどうかと人々に問うた。
 食べると言って集まったお客たちだったが、随筆「馬食会」によると──
 当夜の客は九人で七輪の上にかけた鍋のまはりを取り巻いた。ぐつぐつ煮立つて来てもだれもまだ箸を出さない。そこに出てゐる蒲鉾ばかり摘まんで頻りに酒を飲んでゐる。牛鍋の時は、いつもまだ煮えない内から箸を突つ込んで騒ぎ立てる若い衆も今夜は大変おとなしい。(『御馳走帖』中公文庫 157頁)
 じつは会を催した百閒自身も、少し腰が引けていた。馬肉を食べるのは久しぶりだったからだ。
 私は馬の味は十分知りつくてゐる様な事をみんなに話したけれど、それはうまかつたのも、まずかつたのも十年以上昔の話であつて、この頃の馬はどんな味がするか丸で見当がつかない。気味が悪いなどと云ふ気持は毛頭ないし、又馬鍋の主人たる手前そんな顔はしてゐられないのであるが、もうここは煮えたか知らと云ふ事を、一つ所を見つめて何べんでも考へる。さつき馬肉屋の店先で、肉を切るのを待つてゐた時、往来の向う側を陸軍の馬が三匹通つたことを思ひ出したりした。(同157-158頁)
 ところが、思いきって箸をつけ始めると意外にうまいので、主客共にモリモリと食べ、鍋はめでたくからになった。
 この席上で、ここに鹿を加えたらどうだろうという話が出た。百閒は翌年の一月にそれを実現した。神戸在住の「父の友人」に「鹿の肉を送つて貰ふ様におねだりした」(「玄冬観桜の宴」)のである。
「鹿ノミナラズ」という随筆に、その一月の宴の模様が記してあるが、ここには鹿肉を「おねだりした」とは書いていない。
 神戸魚崎在住の亡父の友人の小父さんから、六甲山の鹿の肉を貰つた。数年後に起こつた戦争の気配がなかつたわけではないが、まだ世間はそれ程窮屈ではない。小人数のところへ鹿の肉をどつさり戴いても食べ切れないから、乃ちお客をする事を考へる。
 鹿鍋はそれだけで結構であり、珍らしい御馳走だが、言葉の姿をととのへるには馬も添へた方がいい。そこで寒い風の吹く寒い日の午後、麹町から近い四谷の馬肉屋へ馬の肉を買ひに行つた。」(同377頁)
「鹿に馬をあしらつてお客をして、どんな風であつたか、尋ぬるもおろか、かたるも馬鹿馬鹿しいが、鹿ノミナラズ馬を添へた鍋の風情は一しほであつた。」(同378頁)と百閒は自画自賛する。
 鹿の肉と馬肉は同じ鍋の中で、いい工合に融合調和してぐづぐづと煮立つてゐるが、お客の中に心事の陋劣ろうれつなのがゐて、自分の箸の先で鹿の肉にからみ合つてゐる馬肉を取り離し、鹿ばかり食ふ。特に鹿の方がうまいと云ふわけはないのだが、「馬肉」と云ふ固定観念フイクストアイデアからか、馬肉を食ふ劣等感覚をきらふ為か、頻りに苦心して取り分ける。さうしてお酌を受けて忙しく杯を重ねるので、大分廻つて来るらしい。(同379-380頁)
「鹿よりも馬の方が味があった」と百閒は「馬食会」に書いているが、鹿肉は淡白だから、さもありなん。もっとも、最近ジビエとして珍重されるエゾジカなら濃厚な風味があるけれども。
 じつは、随筆「鹿ノミナラズ」に「馬鹿鍋」という言葉は一度も使われていない。無論わざとそうしているので、このあたりが百鬼園随筆の微妙な可笑しさだ。しかし、偉大な文人が範を垂れたからであろう、馬鹿鍋を試みる好事家は世に尽きず、店で出すところもある。
 そういえば、もう三十年以上も前、昼に湯島から本郷三丁目の交差点へ向かって坂道を登って行ったら、居酒屋風の店の入口に「馬鹿鍋」と書いた紙が貼り出してあった。
「オオ、あれか!」
 と思ったけれど、その店へはとうとう入らずにしまって、この珍味を味わう口福にはいまだ恵まれない。
 しかし、バカがあるなら当然トンマもなければならないはずで、こちらの鍋は試みたことがある。
「みの家」という馬肉料理の老舗は、みなさん御存知だろう。深川の森下に本店があり、新宿二丁目に支店がある。以前は小石川の伝通院のそばにも支店があった。
 大学院に通っていた頃、何かのクラスの打ち上げで、学友たちとその伝通院のそばの店で宴会をした。品書を見ると豚鍋も置いてあるので、両方を注文し、肉を一緒の鍋でグツグツと煮た。
 味は普通の馬鍋の方が良かった。豚と馬との混合物は、やはりその名を髣髴ほうふつさせるところがあったと思う。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)