南條 竹則
第29回 「陶然亭」前編
 内田百閒の「餓鬼がきどうこう目録」は、いわば空腹が生んだ美食文学である。
 この種のものは、調べてみたらたくさんあるに違いないが、わたしがすぐに思いつくのは、青木正児まさるの「陶然亭」だ。
 青木正児のことは前にもちょっと御紹介した。
 東北帝国大学、京都帝国大学の教授を歴任した漢文学者で、学位論文「支那近世戯曲史」をはじめ、中国の文芸思想の研究と紹介に努めたが、書画・音楽にわたる広い範囲の芸術に興味を寄せた。
 その興味は酒茶・食品・器物などにも及び、それまでの日本人が真剣に扱おうとしなかった飲食に関する、学問的で、しかも趣味の豊かな文章を残した。飲食関係の著書に『華国風味』『酒中趣』『中華飲酒詩選』などがあり、袁枚えんばいの料理書『随園食単』の訳者としても知られる。まさに文人というべき存在である。
「陶然亭」は、その彼が残した異色のフィクションである。
 この文章は初め昭和二十一年十月と二十二年五月、雑誌「知慧」に発表され、単行本『華国風味』に収められた。
 同書の自序に曰く──
(前略)美食するほどの力はないが、貧乏所帯は貧乏所帯なりに、あれやこれやとり好みして、食い気もまず相当なものであると思う。それに近年食生活の窮屈なところから、この方の神経がただとがりに尖って、本を読んでもとかく食い物の事が目に付きやすく、書く事も食い物の話に筆が走りたがる、文学も糸瓜へちまもあったものでない。誠にさもしく、お恥ずかしいことで、我ながら食い意地の張って来たのに呆れかえる。さはいえ、どうかこれが寿徴であってくれよかしと祈る心から、今年還暦の寿を迎えた記念に、この十数篇の食い気ばなしを集めて、自ら祝福する次第である。(岩波文庫 4頁)
 この序文には「昭和二十二年七月主食遅配のもなかに」とある(但し、事情があって、本が出たのは昭和二十四年だった)。まさに戦後の食糧難の時期だった。
 同書は華国=中国の飲食に関するエッセイ十篇、付録として「陶然亭」と「花甲寿菜単」を収める。「花甲寿菜単」は著者の還暦祝いの宴の献立。そして「陶然亭」は一篇のファンタジーだ。
 その書き出しはいかにも素晴らしい──
 読者諸君の中には、あの家を御存じの方も少なくなかろう。いや、私などよりもずっと馴染の深い、御贔屓の顧客もおありのことと思う。物価の安いあの頃でも、あの家くらい下値で気持よく飲ませてくれる家は多くなかったであろうと思われる。あの家の亭主は支那浪人上りで、多少文字もあり、趣味を解し、好事こうずで凝り性で、呑気で鷹揚で、よく恬淡てんたんで、何よりもいことは酒の味が分り、酒人の気持を呑込んで、少しでも客に酒を旨く飲ませようとつとむる親切気のあった事である。(同178頁)
 この店の構えはどんな風かというと──
 高台寺××町の北側に、冠木かぶき門脇の建仁寺垣の中から、明板みんばん『水滸伝』の挿絵に見かける酒帘しゅれんのような、魚尾形の尾を垂れた細長い小旗に「湯豆腐ちり鍋蓬莱鍋」と記し、竿頭に千生瓢簞をさかさに挿したのが覗かされている異様の風景には、路行く人も目を引かれたことであろう。門から一間半か二間ほど引込めて南向きに建てられた素朴な変哲もない二階家の中央に、破風造りの小屋根を持った入口が半間はんけんほど突き出しており、酒袋の古布で作った暖簾が垂れていた。その破風の中間に「陶然亭」と刻した欅の板額が掲げられ、暖簾の両側の狭い壁に「手軽一杯」「深酒御免」と刻した対聯ついれんまがいの板が掛かっている。(同178-179頁)
 店の奥にはこも被りの酒樽が並び、客席には各々の卓の中央に湯沸かしが備えつけられていて、客が自分で燗をつけられるようになっている。
 席に着くと、給仕娘が「陶然亭酒肴目録」なるものを持って来る。
 それを見て、まず酒の銘柄を指定すると、給仕娘は菰被りから酒をガラスの燗瓶についで持って来る。お客はその間に注文する肴のしるしを目録につけておいて、給仕娘はそれを帳場へ携えてゆく。
 さて、この目録というのが凄いのだ。
 長大でとても全文引用することはできないが、概要を次回御説明しようと思う。

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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)